|
言問通り 西浅草三丁目交差点手前のひさご通り入口で右折、千束通りへ |
|
言問通り 西浅草三丁目交差点手前のひさご通り入口で右折、千束通りへ
ひさご通りは花やしきからくるアーケードで、千束通りも大きな商店街である。交差点名があってもおかしくないが、無名である。 |
|
千束通りを北上 |
|
千束通り 浅草四丁目交差点で左折、一葉桜・小松橋通りへ |
|
ニンニンパンダバス #6 一葉桜・小松橋通り |
|
一葉桜・小松橋通り 紅葉の桜並木を西進 |
|
一葉桜・小松橋通り 千束三丁目交差点で右折、せんわ通りへ
5差路で、せんわ通りの表示がある電柱に向かう。 |
|
千束三丁目交差点 一葉桜・小松橋通りに向かう北めぐりん
経路変更前のニンニンパンダバスも、鷲神社から北めぐりんのように一葉桜・小松橋通りに向かった。 |
|
せんわ通りを北上 |
|
せんわ通り 直進して酒販店かくやす前を進む |
|
せんわ通り 吉原弁財天前で左折
右の黄葉した木立は吉原弁財天で、直進すると区立台東病院である。北めぐりんは、酒販店かくやすと台東病院を往復してから千束三丁目交差点に向かう。 |
|
吉原弁財天 |
|
吉原弁財天 新吉原花園池(弁天池)跡
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(一六五七)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。以来、昭和三三年までの三〇〇年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は、花園池・弁大池の名で呼ばれたが、大正一二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、四九〇人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正一五年に造立されたものである。昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。 |
|
吉原弁財天 関東大震災犠牲者供養 大観音像 |
|
吉原弁財天 関東大震災犠牲者供養 大観音像 |
|
吉原弁財天 花吉原名残碑
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊廊で、元和三年(一六一七)茸屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦三年(一六五七)の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千東)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「売春防止法」の成立によって廃止された。 |
|
吉原弁財天 花吉原名残碑 |
|
吉原弁財天 関東大震災八十周年碑 |
|
吉原弁財天 関東大震災犠牲者供養 大観音像 |