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上野寛永寺 根本中堂散策H250308

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上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺通用門 上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺通用門 

言問通りの上野桜木二丁目交差点で左折すると金色の葵の御紋付きの扉が見え、寛永寺の通用門である。
 上野寛永寺(根本中堂) 書院 上野寛永寺(根本中堂) 書院 

根本中堂の裏手で通用門から入るとすぐ左にある。最後の将軍徳川慶喜が水戸退去前の2ヶ月ほど蟄居していた。
 上野寛永寺(根本中堂) 根本中堂 上野寛永寺(根本中堂) 根本中堂 
上野寛永寺(根本中堂) 上野寛永寺(根本中堂) 
上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺案内 上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺案内 
上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺案内 上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺案内図 

寛永寺のほとんどが上野公園になっており、右上角の一画がいわゆる寛永寺である。彰義隊と官軍との上野戦争や戦災で多くの遺構が失われている。
中央の緑色が動物園などの公園で、寛永寺との間が東京国立博物館である。左下は不忍池である。
上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) 上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) 
上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) 上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) 
上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) 上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) 

旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(一八六八)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(一八七六)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(一六三八)の建造といわれる。
間口・奥行ともに七間(十七.四メートル)。前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸しとみど(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重とし、細部の様式は和様を主とする。
内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。
上野寛永寺(根本中堂) 虫塚 上野寛永寺(根本中堂) 虫塚 

 虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため、文政四年(一八二一)に建てられたものである。
 増山雪斎は、宝暦四年(一七五四)の生まれ。本名を正賢といい、雪斎はその号であるが、玉園・蕉亭・石顛道人・巣丘隠人など多くの別号がある。江戸の文人大田南畝や大坂の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜「虫豸帖」は、その精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に町名である。文政二年、六十六歳で没した。
 虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転した。
 勧善院は、四代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
 碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わったことが知られる。
上野寛永寺(根本中堂) 虫塚 上野寛永寺(根本中堂) 虫塚 
上野寛永寺(根本中堂) 上野戦争碑記 上野寛永寺(根本中堂) 上野戦争碑記 
上野寛永寺(根本中堂) 縁起 東叡山寛永寺 上野寛永寺(根本中堂) 縁起 東叡山寛永寺 

 元和八年(一六二二)、徳川幕府二代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永二年(一六二五)に竣工。根本中堂の完成は元禄十一年(一六九八)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約三万坪、江戸時代の十分の一ほど)現在に至っています。江戸開府四百年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで、江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介致します
上野寛永寺(根本中堂) 縁起 東叡山寛永寺 上野寛永寺(根本中堂) 縁起 東叡山寛永寺 
 上野寛永寺(根本中堂) 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 上野寛永寺(根本中堂) 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 

 尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。
 寛文三年(一六六三)京都で生まれた。乾山のほか・深省・逃禅・習静堂・尚占斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・亨保年間(一七一一~三五)輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
 寛保三年(一七四三)八十一歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政六年(一八二三)顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化十二年(一八一五)に光琳百回忌を営み、「光琳百図」「尾形流略印譜」を刊行、文政二年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨四ー八-二十五)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
 当寛永寺境内の二つの碑は・昭和七年・その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、幕碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正十年には公寛法親王との緑により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと三たび移転を重ねたとある。
 なお、入谷ロータリーの一隅に「人谷乾山窯元碑」がある。
 上野寛永寺(根本中堂) 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 上野寛永寺(根本中堂) 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 
上野寛永寺(根本中堂) 慈海僧正墓(都旧跡) 上野寛永寺(根本中堂) 慈海僧正墓(都旧跡) 

 墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と刻む。
 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。束叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代衣する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻の著作がある。
 寛永元年(一六二四)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。
 墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和三十三年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。
上野寛永寺(根本中堂) 慈海僧正墓(都旧跡) 上野寛永寺(根本中堂) 慈海僧正墓(都旧跡) 
上野寛永寺(根本中堂) 了翁禅師像 上野寛永寺(根本中堂) 了翁禅師像 
上野寛永寺(根本中堂) 都旧跡 了翁禅師塔碑 上野寛永寺(根本中堂) 都旧跡 了翁禅師塔碑 
上野寛永寺(根本中堂) 都旧跡 了翁禅師塔碑 上野寛永寺(根本中堂) 都旧跡 了翁禅師塔碑 

 了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧である。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。
承応年間(一六五二~五五)隠元禅師に師事し、のち、諸国を巡錫している途中、夢の中でたまたま一種の薬法を修得し、これを錦袋円と名付けて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じ、さらには経典七千巻を購入して経庫を造ってこれを寛永寺に寄贈した。天和三年(一六八三)には勧学院を建てて教育に尽力、その功によって輪王寺宮より勧学院権大僧都法印に任ぜられた。宝永四年(一七〇七)五月歿。ときに七八才。
上野寛永寺(根本中堂) 了翁禅師像 上野寛永寺(根本中堂) 了翁禅師像 
上野寛永寺(根本中堂) 銅鐘(台東区有形文化財 上野寛永寺(根本中堂) 銅鐘(台東区有形文化財 

 本鐘の大きさは、総高一七七.ニセンチ、口径九一.八センチ。
 厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年(一六八一)五月八日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(一六七三)から貞亨三年(一六八六)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
 平成十八年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登職された。
上野寛永寺(根本中堂) 銅鐘(台東区有形文化財 上野寛永寺(根本中堂) 銅鐘(台東区有形文化財 
上野寛永寺(根本中堂) 六地蔵 上野寛永寺(根本中堂) 六地蔵 
上野寛永寺(根本中堂) 正門 上野寛永寺(根本中堂) 正門 



 
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