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六郷土手交差点手前で右折
六郷土手駅から少し戻り、六郷土手交差点手前で右折、民家の間の路地を歩く。 |
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六郷橋の北詰めにある宮本台緑地
北野天神の向かいにあるが、車の往来が激しく、道を渡ることが出来ない。
六郷橋の東詰めにある小公園で、旧六郷橋の親柱など六郷橋所縁の展示がなされている。 |
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旧東海道 北野天神(止め天神)
北野天神(止め天神)は、多摩川の堤防を越した所にある小社である。 |
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旧東海道 北野天神(止め天神) 六郷の渡し跡
「六郷の渡し」は、旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、江戸の玄間口の渡し場として、交通上極めて重要であった。
架橋の記録は永禄年間(一五五八〜六九)慶長年間(一五九六〜一六一四)がある。その後貞享五年(一六八八)洪水により流失してからは、橋をかけず渡船によって交通が行なわれた。
渡しのようすは広重の錦絵や地誌叢書類によって知ることができる。
明治七年(一八七四)以降、地元八幡塚村篤志家鈴木佐内によって、木橋がか
けられ有料で通行させていたが、数次の流失にあった。現在の橋は昭和五十九年(一九八四)に架橋されたものである。 |
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旧東海道 北野天神(止め天神)
「止め」の理由は下記の故事による。
此処からほど近い旧東海道の一角に土地の古老達が、「柳生様」と呼んでいた所があります。将軍指南役柳生家の留守居役馬別当の屋敷と馬屋があった跡です。
八代将軍吉宗公の御乗馬が暴走してあわやと言う時に「将軍の落馬を止めた」北野天神の御加護にあやかったのだと言われています。 |
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北野天神(止め天神)脇の堤防から六郷橋へ |
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北野天神(止め天神)脇の堤防から六郷橋へ |
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第一京浜 多摩川に架かる六郷橋 |
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第一京浜 多摩川に架かる六郷橋
広大な河川敷がある東京側は、ゴルフの打ちっ放し場があり、川との間に台風の都度救助活動がテレビを賑やかすホームレスのテント村がある。 |
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第一京浜 多摩川に架かる六郷橋
川崎川の堤防沿いに京急の大師線が走る。 |
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六郷橋を渡り右折、旧東海道 川崎宿へ |
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旧東海道 川崎宿 六郷の渡しと旅籠街
六郷橋を下りた所にある。
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑かな旅龍街。
幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮……」。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。
○川崎宿の家並
旅龍六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕篭屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒。
―文久三年の宿図から―
(一八六三) |
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旧東海道 川崎宿 旧東海道の碑 |
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旧東海道 川崎宿 史跡めぐり
OKストアの壁に設けられており、六郷の渡しから川崎駅前を経て、八丁畷駅まで記されている。 |
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本町交差点で大師道(国道409号)を渡る
国道409号は右にある市役所通りとの交差点からは府中街道となり、左折すると川崎大師を経て東京アクアラインにつながる。 |
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旧東海道 川崎宿 旧東海道の碑
本町交差点を過ぎた所にあり、このような碑がいくつもある。 |
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旧東海道 川崎宿 田中本陣(下の本陣)
川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(一六二八)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。
本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。建物の改造や、再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。
本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、江戸後期には、大名家の財政難やら参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(一八五七)、アメリカ総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。 |
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旧東海道 川崎宿 田中本陣と休愚
田中(兵庫)本陣は、寛永五(一六二八)年に設けられた宿内最古の本陣である。ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた『民間省要』の著者としても知られる。 |
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旧東海道 川崎宿 宗三寺
京急川崎駅の裏にあり、墓所には大阪方の浪人で元和元年(1615年)に川崎に土着した波多野一族の墓や、遊女の供養碑がある。探したが、見当たらなかった。 |
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旧東海道 川崎宿 宗三寺
宗三寺は、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後身とみられる宿内一の古刹である。寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。 |
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旧東海道 川崎宿 川崎宿の由来
慶長六年(一六〇一)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和九年(一六二三)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる東海道五十三次となった。
慶長五年(一六〇〇)江戸三大橋の一つとして六郷大橋(一〇九間)が架けられたが、度々の洪水で破損し、元禄元年(一六八八)から船渡しとなった。
川崎宿は、久根崎・新宿・砂子・小土呂四町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。徳川将軍の四代にわたるお大師様への厄除け参詣が、J戸庶民の大師詣を盛んにし、大師には門前町ができて大いに賑わった。 |
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旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点で右折 |
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旧東海道 川崎宿 砂子一丁目交差点 中の本陣
この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤・田中両本陣の間に位置することから、通称「中の本陣」とも呼ばれたが、江戸後期に至り、廃業した。 |
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川崎駅前 銀座街 |
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京急 本線 京急川崎駅 |