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墨堤通りを西進
墨堤通りは右に東武伊勢崎線、左に京成本線に挟まれている。 |
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墨堤通り 千住東一丁目交差点 |
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墨堤通り 広域避難場所案内図
立派な掲示板に描かれた広域避難場所案内図は珍しくないが、道のポールに掲示されているのは面白い。現在地は中央下である。現在地表示がないので土地勘がないと分かりにくい。 |
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墨堤通り JR常磐線、東京メトロ日比谷線ガード下を進む |
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墨堤通り 千住仲町公園 |
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墨堤通り 千住仲町交差点で右折、旧日光街道へ
少し先に日光街道(国道4号)と交差する千住宮元町交差点があり、左折すると多くの旧日光街道の遺構を見つつ、足立市場入口交差点に出る。この交差点で日光街道と合流し、千住大橋に向かう。 |
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墨堤通り 千住仲町交差点で右折、旧日光街道(千住仲町商店街)へ
旧日光街道の千住仲町商店街に入る。 |
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旧日光街道 千住仲町交差点 源長寺(延命子育て地蔵)
源長寺は、慶長三年(一五九八)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(一六一〇)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽した郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。
本尊は、阿弥陀如来である。
山門の右手に延命子育て地蔵がある。 |
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旧日光街道(千住仲町商店街)を北上 |
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旧日光街道 本町センターへ |
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旧日光街道 千住宿 問屋場・貫目改所跡
旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改が置かれていました。
宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられてぃました。千住宿は、50人、50疋てす。この問屋場で、人馬の手配をしました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。 |
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旧日光街道 千住宿 問屋場・貫目改所跡 |
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旧日光街道 東京芸術センター
手前に千住宿 問屋場・貫目改所跡の碑と案内がある。 |
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旧日光街道(本町センター)を北上
千住仲町交差点から千住大橋に向かう区間に比べ、旧日光街道の遺構は少ない。 |
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旧日光街道(本町センター) 北千住二丁目交差点 右折して駅前商店街へ
駅前商店街を渡って宿場町通りに入り、すぐ左手に千住本陣跡の案内板がある。 |
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旧日光街道 宿場町通り 千住本陣跡とその周辺
この案内板がある小道は千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。
●千住本陣跡(緑の部分)
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。
●明治天皇行在所跡(青の付近)
明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。
●千住見番跡(赤の付近)
江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。
●丁目境の筋違(赤線枠の部分)
各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけてぃたのですが一〜ニ丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対してニ丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。 |
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旧日光街道 宿場町通り 千住本陣跡とその周辺
北千住二丁目交差点で宿場町通りに入ってすぐの茶色のビルの裏に千住本陣跡の案内板がある。 |
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北千住駅 駅ビル |
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北千住駅 駅ビル
駅ビルにはJR常磐線、つくばエクスプレス、東武伊勢崎線兼東京メトロ日比谷線の順で改札口がある。 |
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東武 伊勢崎線 北千住駅 |