世田谷代官屋敷跡

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世田谷代官屋敷跡 表門 世田谷代官屋敷跡 表門 

江戸時代の初め、大場氏は彦根井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲した。
 この屋敷は江戸中期の建築であるが、母屋は約七十坪(約二三一・四平方メートル)、萱葺き、寄棟造りで、萱葺きの表門とともに、旧時の遺構をとどめ関東地方における代官屋敷としての規模をよく保存している。
世田谷代官屋敷跡 世田谷代官屋敷跡 

重要文化財 大場家住宅

 この住宅は、大場家7代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦(1753)の2度にわたる工事に依ってかんせいしたものであります。
大場家は元文4年(1739)から幕末まで彦根藩の代官職を世襲したので
その役宅としても使用されていました。
 江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和53年1月21日国の重要文化財に指定されました。
世田谷代官屋敷跡 世田谷代官屋敷跡 

世田谷代官屋敷跡は普段でも見物できるが、12月と1月の15日、16日に行われる世田谷ボロ市では、昔の捕り物の道具である刺股や袖搦なども展示される。
世田谷代官屋敷跡 世田谷代官屋敷跡 
世田谷代官屋敷跡 世田谷代官屋敷跡 

世田谷のボロ市

世田谷のボロ市は、天正六年(一五七八)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に充てて発した『楽市掟書』に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の一ヶ月に六日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。              この市は、明治六年(一八七三)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などか市商品の大半を占めるようになったからである。
世田谷代官屋敷跡 世田谷代官屋敷跡 
世田谷代官屋敷跡 主屋 世田谷代官屋敷跡 主屋 
世田谷代官屋敷跡 白州跡 世田谷代官屋敷跡 白州跡 
世田谷代官屋敷跡 山吉講富士登拝記念碑 世田谷代官屋敷跡 山吉講富士登拝記念碑 

郷土資料館脇にある。
世田谷代官屋敷跡 山吉講富士登拝記念碑 世田谷代官屋敷跡 山吉講富士登拝記念碑 

富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として旧くから存在したが、庶民の間に冨士登拝の風習が盛んとなったのは富士の行者・食行身禄が現れて庶民救済の教義を提唱した十八世紀以降のことである。食行身禄の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこからは多くの枝講が生まれることとなった。こうして、冨士講は十九世紀の初頭にその隆盛期を迎え、俗に「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げたのである。
 当冨士登拝記念碑は、三軒茶屋の冨士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が、講中の三十三回冨士登拝を記念して屋敷地の一角(現・太子堂四丁目四三八番地付近、茶沢通り路上)に建てたものである。また、その際北口本宮冨士浅間神社(現、富士吉田市)の境内にも、もう一基記念碑を建てており、それも同所に現存している。
 堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の一つ田中屋を経営した旧家である。
世田谷代官屋敷跡 道標 世田谷代官屋敷跡 道標 
世田谷代官屋敷跡 道標 世田谷代官屋敷跡 道標 

この道標は、もと弦巻五−十六−三十一の三叉路にあったが、交通量の増加に伴い、通行車両の振動や接触などで、下部は土中に埋没した状態になっていた。
そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって、当館へ移設されたものである。なお、道標のあった場所には、そのよすがを留めるために同型の石碑が建立され、次の碑文を刻んでいる。
 「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。」

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