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松陰神社散策H260116

【関連サイト】   世田谷線H2008
世田谷線H2008(松陰神社)


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松陰神社 参道入口 松陰神社 参道入口 

松陰神社通りの左手に整備された神社の参道が見える。入口前の道を直進すると国士舘大学、同付属高校、世田谷区役所がある。
松陰神社 参道 大鳥居 松陰神社 参道 大鳥居 

5年半前の前回に来た時は、このような整備された広場や立派な鳥居ではなかったはずだが、と違和感を感じた。これは後で旧鳥居跡や大鳥居の建立銘を見て解消した。
松陰神社 参道 松陰神社の由緒 松陰神社 参道 松陰神社の由緒 

松陰神社
 ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰 先生)

松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて刑死されました。その四年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。
明治十五年(1882)十一月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。
松陰神社 参道 旧鳥居柱 松陰神社 参道 旧鳥居柱 

 松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総重量約20トン程であった。平成23年10月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。 
 「明治四十一年十月五十年祭典」の刻字は社殿向かって左の
柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの。
松陰神社 参道 旧鳥居柱 松陰神社 参道 旧鳥居柱 
松陰神社 参道 大鳥居 建立銘 松陰神社 参道 大鳥居 建立銘 

「平成二十三年十月吉日建之」という銘板が大鳥居の裏に付けられていた。前回は平成20年8月なので、石造の鳥居だった。
松陰神社 参道 神楽殿 松陰神社 参道 神楽殿 
松陰神社 参道 吉田松陰先生像 松陰神社 参道 吉田松陰先生像 

吉田松陰先生像
 (鋳造:平成25年 ブロンズ)

明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。
 松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年かけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。
松陰神社 参道 吉田松陰先生像 松陰神社 参道 吉田松陰先生像 

案内によれば、前回訪問時には無かった像で、大鳥居や参集殿、駐車場などかなりの規模で改修が行われたことが分かる。
松陰神社 御社殿 松陰神社 御社殿 
松陰神社 御社殿脇 松下村塾 松陰神社 御社殿脇 松下村塾 

松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太朗らによって明治25年頃まで続きました。
 松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に。船を企てて投獄繰されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実ともに認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5カ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶を受けた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山県有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。
 本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。
松陰神社 御社殿脇 松下村塾 松陰神社 御社殿脇 松下村塾 

今から40年以上の昔、大学院2年の春休みに萩で見た者と同じで、一目で分かった。あまりにも昔のため、詳細は忘れているが、萩の方は寂れた陋屋のようだった。
 松陰神社 参道 石灯籠 松陰神社 参道 石灯籠 

境内に立ち並ぶ32基の石灯籠は、毛利元昭公をはじめ先生門下の伊藤博文、山県有朋などの縁故者より明治41年(1908)に奉献されたものです。その燈籠に刻まれた文字は書家高田竹山による八分隷書体によるものです。
 松陰神社 参道 石灯籠 松陰神社 参道 石灯籠 

墓所への道の先頭にあるのが伊藤博文寄進の石灯籠である。大勲位公爵伊藤博文と刻まれている。

5年半前の前回は文字がはっきりと読めたが、摩耗が激しく読みにくかった。伊藤博文のはず、と思って見るとうっすらとそのような文字が浮き出てくるという感じである。
松陰神社 墓所 昭和女子大 恩師の墓、同窓の墓 松陰神社 墓所 昭和女子大 恩師の墓、同窓の墓 

墓所への道を歩いていると大きな碑が目に付いた。企業では殉職者の慰霊碑が建てられていることがあるが、三軒茶屋にある伝統ある昭和女子大の碑である。
松陰神社 墓所入口 松陰神社 墓所入口  
松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 
松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 

 文久3年(1863)正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰生生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。
 禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。
 明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。
松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 松陰先生墓 松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 松陰先生墓 
松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 松陰先生墓 松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 松陰先生墓 
松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 松陰神社 墓所 吉田松陰先生他烈士墓所 

埋葬者の墓の位置と、その略歴が記されている。
松陰神社 参集殿、駐車場 松陰神社 参集殿、駐車場 

大鳥居横の道から駐車場に入れるよう、整備されていた。



 
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