万歩計 トップ テーマ別 目次   東京の名所 目次  浅草界隈 目次        ページ ラスト 


万歩計



(From H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)

三ノ輪 投げ込み寺(浄閑寺)

【関連サイト】 東京メトロ(旧営団) 日比谷線H1912


 直前のページに戻ります。

写真の一覧表へ 

大関横丁交差点で日光街道を少し北上 大関横丁交差点で日光街道を少し北上 

北に少し北上した右側に白い塀の結構大きな寺が見える。それが投げ込み寺の名で知られる浄閑寺である。
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 

音無川と日本堤

 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輸橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで濯漑用水として使われていた。
 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残である。
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 

浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
 檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(一七四三)から大正十五年(一九二六)にいたる、十冊の過去帳が現存する。
 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 
投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 
投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 

花又花酔の川柳

「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
投げ込み寺(浄閑寺) 永井荷風の詩碑 投げ込み寺(浄閑寺) 永井荷風の詩碑 
投げ込み寺(浄閑寺) 永井荷風の詩碑 投げ込み寺(浄閑寺) 永井荷風の詩碑 

私費の後ろに諸和38年に永井荷風所縁の品を納めた荷風碑建立の由来が書かれている。
投げ込み寺(浄閑寺) 荷風碑 投げ込み寺(浄閑寺) 荷風碑 
投げ込み寺(浄閑寺) ひまわり地蔵尊 投げ込み寺(浄閑寺) ひまわり地蔵尊 
投げ込み寺(浄閑寺) ひまわり地蔵尊 投げ込み寺(浄閑寺) ひまわり地蔵尊 

山谷には、労働に生き労働に老いて、ひとリ淋しく人生を終る人が数多くいます。
  山谷老友会は、孤独の壁をこえて連帯し、はげましあい、またささえあってきましたが、死後の安心なしには、真の生活の安らぎがないところから、ひまわり地蔵尊の建立を思いたちました。ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルといえます。


 
万歩計 トップ テーマ別 目次   東京の名所 目次  浅草界隈 目次        ページ トップ