神田明神(H2011全面改訂)
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神田明神 鳥居 神田明神 鳥居 

神田明神は天平2年(730年)、現在の千代田区大手町将門塚周辺に創建。それから約200年後、平将門の首を奪い返して塚を築き、葬った。さらに、延慶2年(1309年)には将門公の霊をも相殿に祀り、神田明神と名付けた。元和2年(1616年)現在の場所に移り、江戸城の鬼門の守護神となり江戸総鎮守として現在に至る。
神田明神 隨神門  神田明神 隨神門 
神田明神 神殿、鳳凰殿 神田明神 神殿、鳳凰殿 

左の鳳凰殿は、神札授与所と参集所をあわせ持つ。
神田明神 石獅子 神田明神 石獅子 
神田明神 石獅子 神田明神 石獅子 

 本石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。
「武江年表」には「文久二年(一八六二)十一月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。
 神社境内の獅子山に据えられていたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災により獅子山自体は崩壊した。その際、子獅子は、紛失したものの、親獅子二頭は、保存され、再建された獅子山に据えられた。
神田明神 銭形平次碑 神田明神 銭形平次碑 
神田明神 銭形平次碑 神田明神 銭形平次碑 

銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
平次の住居は、明神下の台所町ということになっている。
この碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁の明神下を見下ろす地に建立された。
石造り寛永通宝の銭形の中央には、平次の碑、その右側には八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。
神田明神 国学発祥之地 神田明神 国学発祥之地 

荷田春満が江戸に下ってより初めて国学の教場を開いたのが、当神社社家芝崎邸内であったことから江戸における国学の発祥の地とされている。
神田明神 明神男坂 神田明神 明神男坂 

この坂を明神男坂と言います。明神石坂とも呼ばれます。「神田文化史」には「天保の初年当時神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を明神に献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺りからやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。
神田明神 明神男坂 神田明神 明神男坂 
神田明神 明神男坂 神田明神 明神男坂 

かなりの急坂である。
神田明神 男坂 神田明神 男坂 

思わず見上げてしまうほどの急坂である。
神田明神 裏参道 神田明神 裏参道 
神田明神 裏参道 神田明神 裏参道 

裏参道の階段を下りると蔵前橋通りである。
神田明神 裏参道 神田明神 裏参道 
平将門首塚 平将門首塚 

読売新聞本社の傍のビルの脇にひっそりとした小さな神社である。
平将門 首塚 平将門 首塚 

京都から飛来した平将門の首が落ちた、との故事による。
天下祭 将門塚の稚児太鼓 天下祭 将門塚の稚児太鼓 

女子高生5人の迫力あるばち捌きで、見事であった。
天下祭 将門塚での慰霊祭 天下祭 将門塚での慰霊祭 

狭い境内は関係者で一杯で、一般観光客は入ることが難しかった。
天下祭 将門塚 天下祭 将門塚 

地下鉄三田線や、半蔵門で度々撮影した。
天下祭 将門塚での慰霊祭 天下祭 将門塚での慰霊祭 

宮司による祝詞奏上。



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