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根津神社散策H240827

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根津神社 表参道 入口 根津神社 表参道 入口 

道は新坂(権現坂・S坂)と呼ばれる坂となって上り、本郷通りに向かう。

本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。森鴎外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 ・・・」とある。 
 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。 
 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川柳吉が、柳豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。
根津神社 表参道 鳥居 根津神社 表参道 鳥居 

徳川5代将軍綱吉が世継が決まった時に現在の社殿を奉建、千駄本の|日社地より御遷座した。権現造りの本殿、拝殿、幣殿、唐門、楼門、透塀は国の重要文化財に指定されている。4月下旬頃、約50種3,000株のツツジが咲くつつじ苑が有名。
根津神社 名所のつつじ苑 根津神社 名所のつつじ苑 
根津神社 神橋、楼門 根津神社 神橋、楼門 
根津神社 楼門 根津神社 楼門 
根津神社 唐門、社殿 根津神社 唐門、社殿 
根津神社 神楽殿 根津神社 神楽殿 
根津神社 根津神社 
根津神社 根津神社 

 大和武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに六代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。五代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し権現造の社殿を造営した。
 社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。
 祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公である。
 境内には「家宣の胞衣塚」(指定民俗文化財)、「塞の大神碑」などがある。
根津神社 唐門、透塀、社殿 根津神社 唐門、透塀、社殿 

唐門は屋根が唐破風になっている門のこと、中国式の門の意味でではない。
根津神社 社殿 根津神社 社殿 

 日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに六代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。五代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営した。
 社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。
 祭神は須佐之男命、大山咋神、誉田別命、大国主命、菅原道真公である。
 境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民俗文化財)、「塞の大神碑」などがある。
根津神社 西門 根津神社 西門 
根津神社 西参道 乙女稲荷神社 根津神社 西参道 乙女稲荷神社 

西門を出ると正面にある。乙女稲荷の鳥居の脇に胞衣塚の案内があり、階段を上って左に胞衣塚がある。右には乙女稲荷に寄進された小鳥居の列がある。
根津神社 左に胞衣塚、右に乙女稲荷 根津神社 左に胞衣塚、右に乙女稲荷 

正面はつつじ苑入口で、シーズンを終えているので閉鎖されている。
根津神社 徳川家宣胞衣塚 根津神社 徳川家宣胞衣塚 

 六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
 この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文二年(一六六二)四月五日ここで生まれた。
 胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
 一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
 この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
 本殿横には、明治十四年に建てられた「胞衣塚碑」がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
 家宣が綱吉の後継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
根津神社 徳川家宣胞衣塚 根津神社 徳川家宣胞衣塚 
根津神社 乙女稲荷神社への小鳥居 根津神社 乙女稲荷神社への小鳥居 
根津神社 乙女稲荷神社 根津神社 乙女稲荷神社 
根津神社 乙女稲荷神社からの小鳥居 根津神社 乙女稲荷神社からの小鳥居 
根津神社 駒込稲荷神社 根津神社 駒込稲荷神社 
根津神社 庚申塔 根津神社 庚申塔 
根津神社 庚申塔 根津神社 庚申塔 

 ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡張などのため、根津神社に納められたものである。
根津神社 塞の大神碑 根津神社 塞の大神碑 

 この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1−1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。
 此の追分は、日本橋から一里(約四粁)で江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋よりに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和三年(一七六六)に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政七年(一八二四)の火災で欠損した。
 その跡地に、この塞の大神碑が、明治六年(一八七三)建てられた。同四十三年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。
 塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。
根津神社 塞の大神碑 根津神社 塞の大神碑 
根津神社 駒込稲荷神社 根津神社 駒込稲荷神社 
根津神社 駒込稲荷神社 根津神社 駒込稲荷神社 
根津神社 駒込稲荷神社 根津神社 駒込稲荷神社 
根津神社 西参道 鳥居 根津神社 西参道 鳥居 
根津神社 西参道 鳥居 根津神社 西参道 鳥居 

鳥居から出て右折、日医大つつじ通りの根津裏門坂を下る。
日医大つつじ通り 根津裏門坂 日医大つつじ通り 根津裏門坂 

 根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。
 根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宜)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。
 坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。「吾輩は猫である」を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。
日医大つつじ通り 根津神社 北参道 日医大つつじ通り 根津神社 北参道 



 
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