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万歩計



(From H14-10-28)

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掲示板(一言どうぞ)

大隈庭園での園遊会(H16−10−24)


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大隈庭園 大隈庭園 

井伊掃部頭、松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を、大隈重信が文人風に改造した。大隈侯没後、邸宅と共に大学に寄贈された。
この庭園は週末は閉鎖されており、久しぶりに中に入った。
大隈庭園の園遊会風景 大隈庭園の園遊会風景 
大隈庭園 稲友乃碑 大隈庭園 稲友乃碑 
大隈庭園の園遊会風景 大隈庭園の園遊会風景 
大隈庭園 平和記念碑 大隈庭園 平和祈念碑 

第二次大戦で早稲田大学の教職員、校友、学生4,300名が亡くなり、その慰霊と平和を祈念するため、平成2年(1990年)に建立された。毎年ホームカミングデーの朝、総長以下関係者による献花が行われる。
大隈庭園 平和記念碑 大隈庭園 平和記念碑 
応援歌「紺碧の空」斉唱 応援歌「紺碧の空」斉唱 

応援部のリードで皆で歌う紺碧の空は、第二校歌と言われ、神宮の早慶戦で何度も歌った。後のチアリーダーは昭和52年に発足した。慶應はその10年ほど前から神宮で応援を始めており、さすがはスマートな慶應、とうらやましく思ったものである。
紺碧の空

住  治男作詞 作曲 古関 裕而

紺碧の空仰ぐ日輪 
光輝あまねき伝統の下
すぐりし精鋭闘志はもえて 
理想の王座を占むる者我等
早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田

青春の時 望む栄光 
威力敵無き精華の誇り
見よこの陣頭歓喜あふれて 
理想の王座を占むる者我等
早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田
早稲田大学 応援部ホームページ 

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昭和六年 作詞 住   治男
       作曲 古関 裕而

当時早慶野球戦における早稲田の成績はさんさんたるものであった。昭和二年、三年と慶応に全敗、四年は三勝三敗であったが、五年は春秋四連敗を喫するという不成績であり、血気盛んな応援団は切歯扼腕(せっしやくわん)する状態であった。一方、慶応は腰本監督が采配をふり、文字通り野球部の黄金時代であった。その上、米国留学から帰国したばかりの堀内敬三氏が作った応援歌「若き血」(昭和二年作)が野球部の好成績とあいまって一世を風靡していたのである。昭和六年四月、この沈滞したムードを打破するために広く学生から歌詞を募り、若々しい気分を盛り込んだ、第六応援歌を作ることにした。早速、応援団は学内の掲示によって歌詞の募集を行った。その結果、選者の西條八十教授は、約三十編の応募作から高等師範部三年住治男の詩「紺碧の空」を一字に修正もなく選んだのである。ところが、作曲者については議論が百出し、「若き血」を圧倒する力強い歌をと検討を重ねたが、時のリーダー長伊藤戊の推薦によって、彼の幼な友達の日本コロムビア専属の古関裕而氏に白羽の矢を立てた。しかし作曲者が古関氏と決まるまで、かなりの日数を要した。初めのうち古関氏に反対者が多く無駄な空白時期があったのである。当時、古関氏は若干二十一歳の新進であり、新民謡、童謡を中心に創作していたほぼ無名に等しい作曲者であった。しかし、大学からの依頼に感激し、応援歌を作曲できることに大きな誇りを感じ、青春の血をこの一作にかたむけ、四月末ついにこの曲を作り上げた。作曲自体は難航せず、一週間ぐらいで出来上がった。この曲を得た応援団は早慶戦を目指し、六月八日から連日、大隈講堂で古関氏自身も加わっての仮称練習を続けた。そして青山会館において松井翠声、渋谷のり子、和田肇、徳川夢声の諸氏の出演によって、披露が盛大に行われた。六月十三日から行われた春の早慶戦でデビューした「紺碧の空」は、野球部を奮い立たせ、伊達正男投手の三連投、三原脩逆転のホームスチールを呼び、今までの不振を一気に挽回したことから一躍評判となった。今や学園の第一応援歌としてゆるぎない評価を受けている。

ホームページには、校歌を初め、有名な応援歌の歌詞が記載され、いくつかは演奏を聞くことが出来る。
応援歌「紺碧の空」斉唱 大応援歌「紺碧の空」斉唱 
応援歌「紺碧の空」斉唱 応援歌「紺碧の空」斉唱 
応援歌「紺碧の空」斉唱 応援歌「紺碧の空」斉唱 
大隈庭園の園遊会風景 大隈庭園の園遊会風景 

どこかで見た体型、と一緒にいた同期生から言われ、近くに行った。
大隈庭園の園遊会風景 大隈庭園の園遊会風景 
大隈庭園の園遊会風景 大隈庭園の園遊会風景 

前総理大臣の森喜朗は、昭和35年の第二商学部卒で、卒業後45年のホームカミングデーの対象者である。それにしても目立つ体格である。
早稲田は竹下、小渕、森と総理大臣を出しているが、今ひとつ人気に欠ける。ピント外れでピエロを演じていると気がつかない哀れな女帝の田中真紀子も早稲田である。一方、今は悪評だが就任時には評判が高かった橋本、3年経っても支持率40%を超す小泉は慶應である。この格差は芋の早稲田の校風に起因するのだろうか。
園遊会最後の演目 校歌「都の西北」斉唱 園遊会最後の演目 校歌「都の西北」斉唱 
早稲田大学校歌
相馬 御風作詞 坪内 逍遥校閲 東儀 鉄笛作曲


都の西北早稲田の杜に 聳ゆる甍は我等が母校
我等が日頃の抱負を知るや 進取の精神学の独立
現世を忘れぬ久遠の理想 
かがやくわれらが行手を見よや
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 
早稲田 早稲田 早稲田

東西古今の文化の潮 一つに渦巻く大島国の
大なる使命を担ひて立てる 
我等が行手は窮り知らず
やがても久遠の理想の影は
あまねく天下に輝きしかん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 
早稲田 早稲田 早稲田

あれ見よかしこの常磐の杜は 心の故郷我等が母校
集まり散じて人は変れど 仰ぐは同じき理想の光
いざ声そろえて空もとどろに 
我等が母校の名をばたたえん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 
早稲田 早稲田 早稲田
早稲田大学 応援部ホームページ 

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明治四十年 作詞 相馬 御風
          作曲 東儀 鉄笛
          校閲 坪内 逍遥

 この校歌が初めて制定されたのは学園の創立二十五周年にあたる明治四十年十月であった。 二十五周年祝典に新しい校歌の制定を目指した学校は広く学生に歌詞の懸賞募集をしたが望ましいものが得られなかったので、審査員である坪内逍遥と島村抱月はこの大任を当時二十五歳の相馬御風に託したのである。彼はこの付託に驚きしきりに固辞したが、容易に許されず、ついに逍遥の校閲加筆を条件にこの大任を引き受けることになった。俊秀相馬御風もこの大任を引き受けてさすがに緊張した。彼はまず音楽に造詣の深い鉄笛東儀季治を訪ねて相談した。鉄笛の手許にあった英米諸国の各大学校歌を調べ、その曲を調べ、その曲を聞かせてもらって、大体の見当をつけてから当時の学長高田早苗博士、坪内博士にその内容その他の条件を尋ね、骨組を作って先輩の承認を経た上で作詞に着手した。御風は八千の健児が歌う校歌を作るを命ぜられた光栄に頬を輝かせて十日間の日時を費やして作詞を終えた。調子は第一に荘重を旨とし、坪内、東儀、島村三氏の意見を斟酌(しんしゃく)して八七調に定めた。最後に逍遥に校閲加筆を請うたが、逍遥はこれを一読するや口を極めて絶賛し、説くに第三節の「心の故郷」云々の句を称揚し、「早稲田、早稲田、早稲田」のエールを各節の終わりに付け加えただけであった。歌詞は、御風から東儀鉄笛に廻され鉄笛もまた一生一代の仕事として、その全音楽的精力を傾注して作曲に没頭し、幾度も幾度も校庭に全校生徒を集めて自分の指揮の下に練習を行った後、いよいよそれを校歌と定めることになった。

ホームページには、校歌を初め、有名な応援歌の歌詞が記載され、いくつかは演奏を聞くことが出来る。
園遊会最後の演目 校歌「都の西北」斉唱 園遊会最後の演目 校歌「都の西北」斉唱 

 
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