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大阪城 西外堀を東進 乾櫓 |
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大阪城 西外堀を東進 追手門学院 大手前中学校 |
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大阪城 西外堀を東進 |
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大阪城 西外堀を東進
若木のイチョウ並木が少し色づき始めている。 |
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大阪城 西外堀を東進 京橋口 土橋 |
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大阪城 西外堀を東進 三の丸地区 案内図
三の丸地区は地図の上部のピンク色の円弧部分で、北外堀と寝屋川に囲まれた部分で桃園がある。 |
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大阪城 西外堀を東進 三の丸地区 案内図 |
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大阪城 西外堀を東進 京橋口 土橋 |
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大阪城公園 二の丸地区 京橋口
大阪城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋囗」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。 |
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大阪城公園 二の丸地区 京橋口 枡形の巨石
京橋口枡形の内,京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際に徳川幕府による大阪城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。 |
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大阪城公園 二の丸地区 京橋口 枡形の巨石 |
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大阪城公園 二の丸地区 |
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大阪城公園 二の丸地区 狛犬
道の両端に狛犬が置かれている。 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 |
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大阪城公園 二の丸地区 狛犬
こま犬
この一対の「こま犬」は中国・明【みん】の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約29トンある。日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口出枡形【やまざとぐちでますがたか】の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり現在の場所に移された。以来この「こま犬」は.両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴となっている。脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本特命全権大使の筆になる。 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀を東進 天守閣 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀を東進 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀を東進
内堀
本丸を取り囲む堀で、南側を空堀とするほかは水堀となっている。寛永元年(1624)開始の徳川幕府による大坂城再築第2期工事により、豊臣時代の本丸に盛り土をほどこして石垣が築造された。
幕府の命令によって動員された大名は豊前小倉藩細川家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家をはじめとする59家で、総延長は約2.7キロメートル、東側石垣の高さは水面から約24メートルに達する。本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟、2層の櫓が2棟そびえていたが、明治維新の大火により全て焼失した。 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 観光船 御座船
豊臣秀吉の御座船である鳳凰丸をモデルにしたもので、内堀を周回する。
料金は1,500円だが、65歳以上は1,000円となる。 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 観光船 御座船 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 極楽橋前広場
大阪城を周回するロードトレインが停まっている。極楽橋から大阪城に入るため多くの人が降りる。乗客の殆どは中国人で、広場に待機する係員が中国語で乗り降りの指示をしている。
トイレや、自動販売機もあり、観光客は木陰で休憩している。 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 極楽橋前広場
殆どが中国人のロードトレインの乗客対応の係員が待機している。 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 極楽橋前広場
極楽橋を渡って山里丸を経て天守閣に向かう。中国人がほとんどで日本人観光客は少ない。 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 極楽橋前広場 案内図 |
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大阪城公園 二の丸地区 内堀 極楽橋前広場 熱中症計は厳重警戒
現在時刻は11:30で、温度33.8℃、湿度52%、熱中症計は厳重警戒である。
前回は天満橋交差点で10:45で、温度26.0℃、湿度70%、熱中症計は注意であった。天気はますます良くなり、真夏並みとなってきた。
はじめはお茶を買い替え、トイレに行く程度の休憩を考えていたが、案内図によれば天守閣周辺まで自動販売機がないので、しっかり給水休憩をすることにした。 |
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大阪城公園 二の丸地区 極楽橋 |