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大阪城公園 山里丸地区
山里丸地区は大阪城天守閣の北に位置し、淀の方、豊臣秀頼母子の終焉の地として知られる。 |
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大阪城公園 山里丸地区 |
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大阪城公園 山里丸地区 山里丸
天守から一段下がったこのあたり一帯を山里丸と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が茂り、いくつもの茶室が建っていた。豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所であった。大坂夏の陣(1615年)で落城の際、淀殿、秀頼母子が自刃したのも山里丸と伝えられている。徳川時代寛永元年(1624年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、石垣を取り囲む櫓のほか大阪城を守衛した山里丸加番(城役人)の建物が立ち並んでいた。 |
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大阪城公園 山里丸地区 山里丸石垣の機銃掃射痕 |
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大阪城公園 山里丸地区 山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡て、機銃掃射によってついたものと推定されで 昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよふ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍需工場があった大阪城も標的となった。
山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛はされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。 |
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大阪城公園 山里丸地区 刻印石広場 |
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大阪城公園 山里丸地区 刻印石広場
石を切り分けるための四角い穴が開いたものや、工事した藩などの印がついた石が転がっている。 |
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大阪城公園 山里丸地区 刻印石広場 |
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大阪城公園 山里丸地区 山里口出枡形
刻印石広場から少し急な階段を上る。 |
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大阪城公園 山里丸地区 山里口出枡形 |
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大阪城公園 山里丸地区 山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。南には本丸に通じる姫門、奥には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。 |
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大阪城公園 山里丸地区 山里口出枡形 |
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大阪城公園 本丸地区 天守閣裏で集合中の小学生
中国語だらけの中を歩いてきたが、急に生徒たちに注意事項を話している先生の声が聞えてきた。 |
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大阪城公園 本丸地区 天守閣裏 |
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大阪城公園 本丸地区 天守閣 東道路
異様な感じだが、バリアフリーとして天守閣入場口までのエレベーターが設置されている。勝手に乗ることは出来ず、入場券の改札口で係員の指示に従って利用できる。
改札口から天守閣入場口までは結構急な階段があり、エレベーターが無いと厳しい。 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 天守閣
天守閣は3年前に来ており、今回はスルーした。 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 無料真田丸記念写真
大河ドラマの真田丸に因んだ陣羽織や鎧兜などを着て写真を撮るコーナーが出来ている。テレビでも大坂冬の陣が始まっており、大阪城が舞台である。 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 旧大坂市立博物館(旧陸軍第4師団司令部庁舎)
旧陸軍第4師団司令部庁舎を利用して昭和35年に開館したが、平成13年に馬場町交差点に大阪歴史博物館が開館することにともない、閉館した。現在は使用されていない。
旧第四師団司令部庁舎改修整備工事に伴う解体工事が行われている。 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 本丸御殿跡
城の中心部を本丸といい、大坂城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっている。慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも昭和22年(1947)に焼失した。ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 旧第四師団司令部庁舎改修整備工事に伴う解体工事 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 桜門枡形の巨石 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前 (岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 桜門枡形の巨石 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 桜門 銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などの井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大坂城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今の配水池に埋もれていて目にすることができない。 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 桜門 銀明水井戸の井筒 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 桜門 |
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大阪城公園 本丸地区 本丸広場 桜門
重要文化財 桜門
本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石ぱ龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。 |