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大阪城公園(豊国神社〜玉造口)〜森ノ宮駅

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大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 
大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 豊臣秀吉公像 大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 豊臣秀吉公像 

かつては中之島に鎮座していた。秀吉のほか豊臣秀頼、豊臣秀長も祭神とする(京都市の豊国神社は秀吉のみが祭神)。

明治12年(1879年)11月 京都市の豊国神社の別社として創建、大正10年(1921年)に独立した。当初は中之島公園の大阪市中央公会堂がある地点に鎮座しし、昭和36年に現在地に遷座した。
昭和18年に戦時供出された秀吉像は平成19年に復元された。
大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 
大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 本殿 大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 本殿 
大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 

本殿左側から出る。
大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 大阪城公園 二の丸地区 桜門前 豊国神社 
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 特別史跡大坂城跡 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 特別史跡大坂城跡 
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 特別史跡大坂城跡 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 特別史跡大坂城跡  

 大坂城跡は昭和28年(1953)3月31日に国の史跡に指定されました。
 指定理由として、この地を本拠に織田信長と争った本願寺の繁栄、豊臣秀吉の築城、大坂夏の陣における落城とその後の徳川幕府による再築という大坂城の変遷が、国の歴史上きわめて特色ある、重要な局面を示している点があげられています。
 加えて、著名な巨石や、高い技術で積まれた美しい石垣、広くて深い水堀等からなる現存遺構が、わが国を代表する近世城郭である点も評価されているのです。         続いて昭和30年には、史跡のなかでも学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴と評価されるとして、特別史跡に格上げされました。                   徳川期の大坂城は、多聞櫓で連結された3層櫓が本丸にいくつもそびえ、二の丸にも2層櫓とそれを繋ぐ白壁が累々と連続する威容を誇っていました。それらのほとんどは戊辰戦争時の大火災と昭和20年の空襲で失われてしまいましたが、災害をくぐり抜けた13棟の建物が昭和28年6月13日に国の重要文化財に指定されました。
 平成25年は、史跡および重要文化財の指定から60周年の節目にあたります。先人が築き、伝えてきた大坂城跡を後の世代によりよい姿で引き渡していくことが私たちの使命であると考えています。
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 南無阿弥陀仏の石柱 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 南無阿弥陀仏の石柱 
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 南無阿弥陀仏の石柱 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 南無阿弥陀仏の石柱 

石山本願寺と大阪(大坂)

 明応5年(1496)。本願寺第8代宗主蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21日付の蓮如の「御文(御文章)」とされている。
 この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」といわれた寺内町が形成された。
 天文元年(1532)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心となった。
 大坂(石山)本願寺の寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心に、六町二千軒におよぶ町屋が建ち並んでいた。たくさんの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
 やがて本願寺は織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後、大坂を退去し、鷺森、貝塚、天満を経て、天正19年(1591)に京都へ移転した。
 一方、秀吉は大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設した。この大坂城は大坂夏の陣で炎上したが、江戸幕府によって再建される。
 大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない。しかし、この大阪城公園の辺りがその遺跡と推定され、現在の商業都市大阪の礎となったといわれている。
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 南無阿弥陀仏の石柱 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 石山本願寺と大阪(大坂) 
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 大阪城公園 案内図 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 大阪城公園 案内図 
大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 蓮如上人袈裟がけの松 大阪城公園 二の丸地区 玉造口行き道路 蓮如上人袈裟がけの松 

豊臣秀吉が大阪城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊舎をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。
大阪城公園 二の丸地区 玉造口 玉造口定番屋敷跡 大阪城公園 二の丸地区 玉造口 玉造口定番屋敷跡 

江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち玉造口定番は二の丸玉造口の内側に屋敷をもち、玉造口守衛のほか、京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。建物は明治維新の大火て焼失 跡地には軍事病院が建てられ、明治10年(一877)に起きた西南戦争では,戦地から戻った多くの傷病兵が収容された。
大阪城公園 二の丸地区 玉造口 大阪城公園 二の丸地区 玉造口 
大阪城公園 二の丸地区 玉造口 大阪城公園 二の丸地区 玉造口 

長い下り坂である。
大阪城公園 二の丸地区 玉造口 大阪城公園 二の丸地区 玉造口 

 大坂城の東南の出入口にあたる。ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代には大手口【おおてぐち】や京橋口【きょうばしぐち】と同様、石垣造りの枡形【ますがた】が造られ、上に多門櫓【たもんやぐら】が建っていた。多聞櫓は慶応4年(=明治元年 1868)、明治維新の動乱にともなう大火によって焼失し、その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により枡形が徹去された。焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両脇の石組み以外は旧観をとどめていない。「玉造」の地名は古代にまでさかのぼり、古墳時代、勾玉【まがたま】・管玉【くがたま】など装飾用の石を作った技術者集団「玉造部【たまつくりべ】」がこの南方に住んでいたと推定されている。
大阪城公園 市民の森地区 玉造口からの坂を下った所で森ノ宮駅方向へ 大阪城公園 市民の森地区 玉造口からの坂を下った所で森ノ宮駅方向へ 
 大阪城公園 市民の森地区 東外堀 熱中症計は警戒 大阪城公園 市民の森地区 東外堀 熱中症計は警戒 

現在時刻は12:40で、温度28.7℃、湿度60%、熱中症計は警戒である。

前回は極楽橋前広場で11:30で、温度33.8℃、湿度52%、熱中症計は厳重警戒であった。

測定場所の差があるものの温度は下がり、湿度は上がった。さすがにこれまでの蒸し暑さのダメージが効いてきており、終点の森ノ宮駅までひと踏ん張りである。
大阪城公園 市民の森地区 突き当りで右折 大阪城公園 市民の森地区 突き当りで右折 
大阪城公園 市民の森地区 突き当りの左は東外堀 大阪城公園 市民の森地区 突き当りの左は東外堀 
大阪城公園 市民の森地区 突き当りで右折 大阪城公園 市民の森地区 突き当りで右折 
大阪城公園 市民の森地区を南下 大阪城公園 市民の森地区を南下 
大阪城公園 市民の森地区 遊具広場 大阪城公園 市民の森地区 遊具広場 
大阪城公園 市民の森地区を南下 大阪城公園 市民の森地区を南下 
大阪城公園 市民の森地区 市営地下鉄 森ノ宮駅 大阪城公園 市民の森地区 市営地下鉄 森ノ宮駅 
大阪城公園 市民の森地区 JR/市営地下鉄 森ノ宮駅 大阪城公園 市民の森地区 JR/市営地下鉄 森ノ宮駅 

高架は阪神高速13号東大阪線で、後方にJR環状線の森ノ宮駅が見える。



 
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