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小塚原 延命寺〜小塚原 回向院〜南千住駅

【関連サイト】   東京メトロ 日比谷線H1912(小塚原刑場跡 回向院)
つくばエクスプレス(三ノ輪 投げ込み寺(浄閑寺)〜小塚原回向院・処刑場跡〜南千住駅)

歴史点描 小塚原回向院、小塚原刑場遺跡



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吉野通り 南千住駅前歩道橋 吉野通り 南千住駅前歩道橋 

右後方に東京メトロ日比谷線の南千住駅のホームが見え、小塚原処刑場跡(延命寺)は左手前の階段を下りる。
南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 

工事用プレハブの横に首切り地蔵がかすかに見えるので延命寺と分かるが、立入しにくい工事現場である。

江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
小塚原の刑場は、間口六十間余(約百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(一七四一)に造立されたものである。
南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 首切地蔵 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 首切地蔵 

小塚原での刑死者の菩提を弔うため寛保元年(一七四一)に建立されたこの地蔵は、二十七個の花崗岩を組み合わせた全体の高さが四メートルに近い坐像で、台座には発願者・石工が刻まれている。奥州街道沿いにあったので、江戸に出入りする多くの人が目にしたという。明治二十八年(一八九五)に土浦線(現常磐貨物線)敷設工事のため線路の南側から現在地に移されたが、人々に安らぎを与えてきた慈悲の姿は変わるところがない。
南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 

延命寺の境内、墓地改修工事の寄付者名簿で事情が分かった。
吉野通り 東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 吉野通り 東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 

延命寺の向かい側に見える。
小塚原 回向院 小塚原 回向院 

回向院は、寛文七年(一六六七)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内吉田松陰頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和八年(一七七一)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された
小塚原 回向院 小塚原 回向院 

 東京メトロ(旧営団)日比谷線南口の吉野通り反対側に小塚原回向院、小塚原処刑場跡がある。小塚原回向院は両国の回向院が手狭になったために建てられたもので、常磐線建設により南北に分けられ、刑場跡は線路脇に首切地蔵がある延命寺となっている。
小塚原 回向院 吉展地蔵尊 小塚原 回向院 吉展地蔵尊 

昭和38年に誘拐、殺害された男児の慰霊の地蔵尊である。
小塚原 回向院 観臓記念碑 小塚原 回向院 観臓記念碑 

回向院に入ってすぐ右の壁に貼られている。

「蘭学を生んだ解体の記念に」
一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。
それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみち三人は発奮してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきつかけとなった。
さきに一九二二年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、一九四五年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 

約4年前に始めて来た時にはねずみ小僧などの墓は入口手前にあった。このような整備されたものではなかった。
下に左側は一般信徒の墓なので立ち入らないように、との注意書きがしてある。
小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 

 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人などの無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本佐内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。
小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 
小塚原 回向院 史跡参拝所 2.26事件 磯部浅一元大尉夫妻の墓 小塚原 回向院 史跡参拝所 2.26事件 磯部浅一元大尉夫妻の墓 

入口左にさりげなく設けられている墓で、名前を見たら2.26事件で処刑された磯部浅一元大尉夫妻の墓だった。
2.26事件も約70年前の事件であり、「史跡参拝所」に移されたのか、との感慨もある。
小塚原 回向院 史跡参拝所 相馬大作供養碑 小塚原 回向院 史跡参拝所 相馬大作供養碑 

相馬大作は南部藩士で、文政4年(1821年)の弘前藩主暗殺未遂事件で獄門となった。
小塚原 回向院 史跡参拝所 腕の喜三郎、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)、鼠小僧次郎吉の墓 小塚原 回向院 史跡参拝所 腕の喜三郎、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)、鼠小僧次郎吉の墓 

右から腕の喜三郎、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)、鼠小僧次郎吉である。
腕の喜三郎は、罪人ではなく、怪我した腕を鋸で切り落とした任侠だそうである。ねずみ小僧の墓は両国回向院にもあり、どちらが正しいのかは知らない。
小塚原 回向院 史跡参拝所 橋本左内の墓 小塚原 回向院 史跡参拝所 橋本左内の墓 
小塚原 回向院 史跡参拝所 吉田松陰の墓 小塚原 回向院 史跡参拝所 吉田松陰の墓 
小塚原 回向院 史跡参拝所 頼三樹三郎の墓 小塚原 回向院 史跡参拝所 頼三樹三郎の墓 

吉田松陰の墓の右にあり、墓石の右横に「頼氏称三樹三郎」と刻まれている。頼三樹三郎とは書かれておらず、ひっそりとしており、その右に立派な花が飾られた墓があるため分かりにくい。
小塚原 回向院 史跡参拝所 吉田松陰、頼三樹三郎の墓 小塚原 回向院 史跡参拝所 吉田松陰、頼三樹三郎の墓 
吉野通り 東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 吉野通り 東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 

回向院を出て右折、南千住駅を見つつ、吉野通りを南下する。



 
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