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京葉道路 本所警察署
本所警察署の看板の後ろに関東大震災での殉職警官の慰霊碑がある。 |
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京葉道路 本所警察署 旧 本所原庭警察署 関東大震災 殉職者慰霊碑 |
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京葉道路 両国三丁目交差点で左折
本所松坂町の吉良邸跡は、本所松坂町公園として整備されているが、場所が非常に分かりにくい。
JR両国駅からの道順は平成20年の義士祭のサイトで説明している。 |
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平成22年 元禄市のポスター
義士祭といえば高輪泉岳寺が有名だが、本所の吉良としての義士祭も行われている。 |
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両国小学校 芥川龍之介 文学碑(杜子春)
芥川龍之介は、回向院に隣接していた江東小学校(現両国小学校)を卒業し、府立第三中学校(現両国高校)に進学した。 |
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両国玩具株式会社脇で右折
左は両国小学校のプールの壁が続く。入ってすぐ右に、旧吉良邸の本所松阪町公園の白壁が見える。 |
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旧吉良邸 本所松坂町公園
本所松坂町公園由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
昭和九年三月地元町会の有志が、世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷杜などの遺蹟があリ当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。 |
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旧吉良邸 本所松坂町公園 |
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旧吉良邸 本所松坂町公園
神号は松坂稲荷大明神である。
吉良邸は本所松坂町公園となっているが、白壁に囲まれた小さな神社である。 |
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旧吉良邸 本所松坂町公園 |
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旧吉良邸 本所松坂町公園 松坂稲荷大明神
「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、その水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷宮され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当初に遷座されました。 |
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突き当りを右折、京葉道路へ
そのまま直進して奥の竹林のある場所が回向院の裏口である。回向院に行くのであれば、鼠小僧次郎吉の墓の近くの裏口に人るのも一つの方法である。ここでは、回向院の山門から入るため右折する。
両国玩具の入口からここまで、狭く短い道路であるが、義士祭では多くの露店が並び、歩くのが大変である。 |
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突き当りを右折し、京葉道路へ
左はENEOS(旧JOMO)のガソリンスタンドである。 |
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京葉道路 両国シティコア(旧国技館)
70年安保世代としては、旧国技館と言うよりも、日大紛争の舞台だった日大講堂の方が馴染み深い。
旧国技館は、天保四年(一八三三)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治四十二年(一九〇九)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。
ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万二千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
東京大空襲まで、三度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和五十八年(一九八三)に解体されました。
左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。 |
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京葉道路 両国シティコア(旧国技館) 土俵の位置
自転車置き場と化しているが、旧国技館の土俵の位置を示している。 |
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京葉道路 両国二丁目交差点 両国回向院
両国回向院は、京葉道路と国技館通りとの交差点にある。
明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。 |
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両国回向院 |
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両国回向院 相撲関係石碑群<力塚>
隅田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興業にさかのぼります。以後、畿つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保四年(一八三三)一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時この場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。 |
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両国回向院 史跡記念墓地
通常の墓地の手前の一角に鼠小僧次郎吉の墓や海難供養碑群などの史跡記念墓地がある。 |
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両国回向院 鼠小僧次郎吉の墓 |
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両国回向院 鼠小僧供養墓
「教覚速善居士」「道一書」
裏面には「大正十五年十二月十五日 建立」、左側には「永代法養料金 五拾圓也 細川 仁三」と刻まれている。
鼠小僧は寛政光年(一七九七年)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保三年(一八三二)八月十九日に浅草で処刑されている。
「甲子夜話」によれば、武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていると記されている。後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき演劇界においては、現在まで続く当り狂言の一つとなった。
明治十二年一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である市川団升が狂言が当った礼として碑と永代供養料十円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ、墓の横にも石灯篭を寄進している。
細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。
文学界においても芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており虚構の鼠小僧の人気は高い。
江戸時代、犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって、祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる。
※他方、供養基の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。
鼠小僧の墓石を欠き、財布や袂に入れておけば金回りが良くなる、あるいは持病が治るとも言われ、成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け、現在までに数百基にも及んでいるという。
発生時期は不明であるが、明治十八年(一八八五年)に初演された、河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰の事が触れられている。 |
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両国回向院 史跡記念墓地横 裏門
出て左折して直進すると、旧吉良邸の松坂町公園に出る。 |
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京葉道路 両国一丁目交差点 一の橋通り
一ツ目通りで、この先の一之橋から隅田川東岸沿いを走る。 |
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京葉道路 両国橋東詰め 表忠碑
日露戦争時の満州軍総司令官である大山巌元帥の書である。あたりは公園整備で高い壁に囲まれており、詳細は分からない。 |
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京葉道路 両国橋東詰め |