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掲示板(一言どうぞ)


かっぱ橋本通り(かっぱ寺(曹源寺)〜合羽橋交差点〜公園六区入口交差点)町名由来 旧松葉町

【関連サイト】   第 1回 地下鉄が最初に走った街、上野・浅草H211115(両大師橋〜かっぱ橋本通り(合羽橋交差点〜公園六区入口交差点))

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 かっぱ橋本通りを東進 かっぱ橋本通りを東進 
かっぱ橋本通りを東進 小野照崎神社大祭 かっぱ橋本通りを東進 小野照崎神社大祭 

小野照崎神社は小野篁を祭神とする神社で、日比谷線の入谷駅の北西に位置する。
かっぱ橋本通りを東進 北上野児童遊園 かっぱ橋本通りを東進 北上野児童遊園 

清洲橋通りは北から北上野児童遊園で東西に分岐し、東側を南下する。
かっぱ橋本通りを東進 北上野児童遊園 東上野五丁目交差点で清洲橋通りを渡る かっぱ橋本通りを東進 北上野児童遊園 東上野五丁目交差点で清洲橋通りを渡る 
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ橋本通りを東進 
かっぱ橋本通りを東進 界隈案内図 かっぱ橋本通りを東進 界隈案内図 

この案内図が作られた経緯は分からないが、現在地は吉田金物と朱塗りのマークで、右上角には泰斗ビル10周年と書かれている。
かっぱ橋本通りを東進 松が谷二丁目交差点で左衛門橋通りを渡る かっぱ橋本通りを東進 松が谷二丁目交差点で左衛門橋通りを渡る 
 かっぱ橋本通りを東進 町名由来 旧松葉町 かっぱ橋本通りを東進 町名由来 旧松葉町 

河童像と一緒に併設されている。
 かっぱ橋本通りを東進 町名由来 旧松葉町 かっぱ橋本通りを東進 町名由来 旧松葉町 

 この付近は元禄十一年(一六九八)に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。跡地には多くの寺院が移転し、門前町が開かれるに伴って新寺町と呼ばれるようになった。
 本町は、明治二年(一八六九)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
 町内に「河童大明神」で知られる曹源寺がある。音、このあたりは土地が低いため雨が降るとたちまち水が出て人々は苦しんでいた。雨合羽商の合羽川太郎は、これを見てだまっていられず排水のための堀割を作ろうとしたが工事は思うように進まない。そこにかつて川太郎に助けられたという河童が出てきて川太郎の工事を手伝い、困難な工事をまたたくまに完成させたという。このようなことから曹源寺には川太郎の墓とともに河童が大明神としてまつられたという。
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) 

かっぱ橋本通りの先に東京スカイツリーが見える。
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) 

「かっぱ寺」の伝承

 巨獄山曹源寺は曹洞宗に属し、天正十六年(一五八八)に和田倉(千代田区)に開かれ、のち湯島天神下に移り、明暦の大火(一六五匕年)の後、現在地に移転したと伝える。当寺の通称を「かっぱ寺」という。
 伝承によると文化年間(一八〇四〜一七)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)いう人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための堀割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。
 この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。
 当寺には河童大明神が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) 
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) 
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) 
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) 

かっぱ寺

文化の頃合羽川太郎が私財を投じ住民の困窮を救うために附近の治水工事を企て、その義に感じ河童が工事に協力完成した。不思議とこの河童を見たものは運が開けたと伝えられ、附近繁栄の義人川太郎と共に河童も福の神として当寺に祭られた。
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) かっぱ橋本通りを東進 かっぱ寺(曹源寺) 

門前にあり、「かっぱのぎーちゃん」と彫られている。
かっぱ橋本通りを東進 海禅寺 梅田雲浜の墓 かっぱ橋本通りを東進 海禅寺 梅田雲浜の墓 

梅田雲浜墓

 雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。通
称は源次郎。雲浜は号である。若狭国に小浜(現、福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化十二年(一八一五)六月七日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。
 朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永五年(一八五二)、幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷論を唱え、梁川星巌とともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政五年(一八五八)の「安政の大獄」で捕えられた。翌六年九月十四日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久二年(一八六二)現存の墓石が建てられた。墓石は関束大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている。
かっぱ橋本通りを東進 海禅寺 梅田雲浜の墓 かっぱ橋本通りを東進 海禅寺 梅田雲浜の墓 
 かっぱ橋本通りを東進 合羽橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る かっぱ橋本通りを東進 合羽橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る 
 かっぱ橋本通りを東進 合羽橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る かっぱ橋本通りを東進 合羽橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る 
かっぱ橋本通りを東進 公園六区入口交差点で国際通りを渡る かっぱ橋本通りを東進 公園六区入口交差点で国際通りを渡る 
かっぱ橋本通りを東進 公園六区入口交差点で国際通りを渡る かっぱ橋本通りを東進 公園六区入口交差点で国際通りを渡る 



 
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