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満開間近の谷中霊園H280331(日暮里駅〜天王寺〜上野桜木交差点)

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谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 谷中霊園 日暮里駅 西口からの入口 

日暮里駅西口の旧駅舎横に階段がある。
谷中霊園 満開間近の桜並木 谷中霊園 満開間近の桜並木 
谷中霊園 満開間近の桜並木 突き当りで左折 谷中霊園 満開間近の桜並木 突き当りで左折 
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 

谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長燿に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺ご改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。

元々日蓮宗の不受不施派であったため弾圧を受け、廃寺になるところを輪王寺宮のとりなしにより元禄12年に天台宗となった。のちに家斉の側室お美代の方一派により日蓮宗改宗の動きがあり、天保4年に寺号を天王寺とした。
谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 

 本像については、「武江年表」元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
 昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。「江戸名所図会」(天保七年(一八三六)刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
 本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
 平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 
谷中霊園 護国山天王寺 開花したばかりの枝垂れ桜 谷中霊園 護国山天王寺 開花したばかりの枝垂れ桜 

枝垂れ桜は天王寺の名物だが、わずかに数輪咲いているだけである。
谷中霊園 護国山天王寺 開花したばかりの枝垂れ桜 谷中霊園 護国山天王寺 開花したばかりの枝垂れ桜 
 谷中霊園 護国山天王寺 沙羅双樹 谷中霊園 護国山天王寺 沙羅双樹 

本堂前に沙羅双樹との石碑があり、小さな白い花が咲く。しかし、これが平家物語で有名な沙羅双樹か、ということについてはWebでは諸説あるようである。
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 

 日蓮聖人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。−伝承による天王寺草創の起源である 一般には、室町時代、応永(一三九四―一四二七)頃の創建という。
 『東京府志料』は「天王寺 護国山卜号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺卜号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで“富くじ”興行が開催された。日黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
 元禄十二年(一六九九)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保四年(一八三三)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和三十二年七月六日、惜しくも焼火してしまった。
谷中霊園 護国山天王寺 谷中霊園 護国山天王寺 
谷中霊園 満開間近の桜並木のさくら通りを南下 谷中霊園 満開間近の桜並木のさくら通りを南下 

天王寺を出ると、道は広くなり、桜並木で有名なさくら通りと称される。
谷中霊園 満開間近の桜並木のさくら通りを南下 谷中霊園 満開間近の桜並木のさくら通りを南下 
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 

最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で消失した。 罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅悸造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月九日放火により消失した。
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 
 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所 

谷中霊園の南北を通る「さくら通り」と、東西を結ぶ「ぎんなん通り」との交差点に交番があり、隣接して天王寺五重塔の遺構がある。
谷中霊園 満開の桜並木のさくら通りを南下 谷中霊園 満開の桜並木のさくら通りを南下 

場所のせいかは分からないが、谷中霊園の南部は満開である。
谷中霊園 満開の桜並木のさくら通りを南下 谷中霊園 満開の桜並木のさくら通りを南下 

さくら通り沿いには川上音二郎、毒婦お伝、徳川慶喜などの墓所や慰霊碑などが並ぶ。
谷中霊園 都道神田白山線と合流 谷中霊園 都道神田白山線と合流 

都道神田白山線は、右から曲がってきて合流する。右折すると三崎坂を下り、団子坂下交差点に至る。
谷中霊園 江戸期の谷中 谷中霊園 江戸期の谷中 
谷中霊園 江戸期の谷中 谷中霊園 江戸期の谷中 

谷中寺町と谷中霊園

「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。    寛永年間(1624年〜43年)上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかった。
そして、慶安年間(1648年〜51年)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657年)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。
幕末の慶応4年(1868年)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にもあわず、昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。
谷中霊園は、明治5年(1872年)、旧天王寺境内のー部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治7年(1874年)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さ約10万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。
 都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 都道神田白山線 上野桜木交差点で言問通りを渡る 

信じられないことだが、都道神田白山線は、民家の間の狭い道を通り抜ける。軽自動車がせいぜいの幅員で、谷中からの一方通行であるが、歩行者にギリギリで結構車が通り抜ける。



 
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