根津神社〜谷中銀座〜夕やけだんだん


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旧町名案内 駒込千駄木町 旧町名案内 駒込千駄木町 

 駒込の名称は、むかし牧場があったからと
いわれる。
 『御府内備考jには、古代素盞烏山と唱え、一帯が林であった。日本武尊はこの林に駒を集め、木々につながれたのを、駒こみたりといったので、素盞烏山を改めて駒込林と唱えたという。
 『新編武蔵風土記稿』には次の記事がある。 昔は駒込村に属した この辺すべて雑木林で、ここから薪を伐り出し、一日におよそ千駄にも及んだので、千駄木山と唱えた。また、この林は太田道灌が植えた栴檀の木が多く、栴檀木林から後に千駄木と字を改めた。
 元文年間(1736〜41)町屋となった。
団子坂下交差点で右折 団子坂下交差点で右折 

この交差点は白山上交差点から、駒込大観音森鴎外の旧居である観潮楼のある団子坂を経て来る道と不忍通りとの交差点であり、右折してすぐ左折して谷中銀座に向う。
団子坂下交差点周辺案内 団子坂下交差点周辺案内 

赤矢印が現在地で、左の上下の線が不忍通りである。交差点で右折し、最初の信号で左折する。
谷中 福丸 谷中 福丸 

左折してすぐの所にあり、次々に観光客や近所の人が入っていくので気になった。10個百円の手頃な値段でもあり買ったが、黒糖の甘さが上品な一口饅頭で、家族にも好評だった。
よみせ通り よみせ通り 

道なりに行くとある商店街で、不忍通りの東側に並行しており、西日暮里の道灌山下交差点近くまで続く。
谷中ぎんざ 谷中ぎんざ 

よみせ通りの途中で右折し、いかにも下町の商店街と言う雰囲気であり、「夕やけだんだん」の坂を上って直進すると日暮里駅に出る。
谷中ぎんざ 谷中ぎんざ 
谷中ぎんざと「夕やけだんだん」 谷中ぎんざと「夕やけだんだん」 
夕やけだんだん 夕やけだんだん 

日暮里は江戸時代に「ひぐらしの里」と呼ばれるほど夕焼けの美しい所で、「夕やけだんだん」は一般公募で名付けられた。谷中ぎんざ商店街を舞台としたNHKの連続テレビ小説「ひまわり」で有名になった。
経王寺 経王寺 

夕やけだんだんを登ってすぐの左手にある。

経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(一六五五)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。
 慶応四年(一八六八)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
経王寺 山門 経王寺 山門 
経王寺 山門 弾痕跡 経王寺 山門 弾痕跡 
経王寺 経王寺 
朝倉彫塑館 朝倉彫塑館 

経王寺の手前反対側を右折し、谷中霊園に向って南下してすぐにある。

当地は、近代の代表的な彫塑家、朝倉文夫が、明治四十年から昭和三十九年に没するまでの五十六年間、アトリエ兼自宅として使用していた場所である。
 朝倉文夫は、明治十六年大分県で生まれ、明治四十年、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築・増築を繰り返し、現在の建物は、旧アトリエ棟が大正十二年の竣工、住居棟及びアトリエが昭和十年の竣工である。本建物内で数多くの彫塑が制作され、代表作に「墓守」、「吊るされた猫」「時の流れ」などがある。
朝倉彫塑館 朝倉彫塑館 

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