万歩計 トップ 散策点描 目次    初夏の下町散策(銀座~日本橋~深川不動尊)H270521 目次  下町散策(銀座~日本橋~深川) 目次  兜神社~東京証券取引所~茅場町駅    ページ ラスト


万歩計



(Since H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)


永代橋~門前仲町交差点~深川不動尊

【関連サイト】   東京メトロ 東西線H2410(門前仲町駅~茅場町駅~日本橋駅)
有名神社 深川不動尊

 直前のページに戻ります

写真の一覧表へ 


永代通り 亀島川に架かる霊岸橋 永代通り 亀島川に架かる霊岸橋 
永代通り 亀島川に架かる霊岸橋 永代通り 亀島川に架かる霊岸橋 
永代通り 永代橋西交差点 永代通り 永代橋西交差点 
永代通り 隅田川に架かる永代橋 永代通り 隅田川に架かる永代橋 

永代橋の西詰の右手に船員教育発祥之地碑がある。

内務卿大久保利通が三菱会社の岩崎彌太郎に命じ、明治8年にこの地に商船学校を開設させた。商船学校は後に越中島の東京商船大学(現在の東京海洋大学)となった。
永代通り 隅田川に架かる永代橋 永代通り 隅田川に架かる永代橋 

「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合い言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨陸々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。

 ・二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興
  橋梁群の中心的存在である。
 ・永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、
  しかも現存最古のタイト・アーチ橋である。
永代通り 隅田川に架かる永代橋 永代通り 隅田川に架かる永代橋 

永代橋は、元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近(現在の佐賀一丁目付近)が昔、永代島と呼ぱれていたため、永代橋と名付けられました。橋の両側には広小路を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て、武士、医師、出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。上流の清洲橋の女性的な優美さに相対し、男性的な重量感を持っています。
隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的構造物に選定されました。
永代通り 永代橋から見える東京スカイツリー 永代通り 永代橋から見える東京スカイツリー 
永代通り 福島橋西詰 佐久間象山砲術塾跡 永代通り 福島橋西詰 佐久間象山砲術塾跡 

 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化八年(一八一一)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保四年(一八三三)江戸へ出て佐藤一斉に朱子学を学び、同一三年(一八四二)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(一八四〇~四二)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、九月には江川太郎左術門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永三年(一八五〇)七月、深川小松町(永代一)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。同年十二月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(一八五四)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(一八六四)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、七月一一日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、五四歳の生涯を閉じました。
永代通り 大横川西支川に架かる福島橋 永代通り 大横川西支川に架かる福島橋 
永代通り 大横川西支川に架かる福島橋 永代通り 大横川西支川に架かる福島橋 
永代通り 福島橋東詰 渋沢栄一宅跡 永代通り 福島橋東詰 渋沢栄一宅跡 

 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保一一年(一八四〇)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。二五歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しまIた。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年(一八七三)に実業界に転じ、以後、
金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年(一九三一)九二歳て没しました。
 栄一は、明治九年(一八七六)に深川福住町(永代二)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二一年(一八八八)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と本区との関係は深く、明治ニニ年(一八八九)から同三七年(一九〇四)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三〇年(一八九七)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正五年(一九一六)に実業界を引退すらまでに五百余の会社設立に関与したといわれていますが本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社`東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
永代通り 永代二丁目交差点 永代通り 永代二丁目交差点 
永代通り 永代二丁目交差点 永代通り 永代二丁目交差点 

三叉路の交差点で左折すると葛西橋通りで、葛西橋に向かう。
永代通り 門前仲町交差点で清澄通りを渡る 永代通り 門前仲町交差点で清澄通りを渡る 
永代通り 深川不動尊 表参道 赤門 永代通り 深川不動尊 表参道 赤門 
深川不動尊 表参道 「人情深川御利益通り」 深川不動尊 表参道 「人情深川御利益通り」 
深川不動尊 旧本堂 深川不動尊 旧本堂 
深川不動尊 新本堂 深川不動尊 新本堂 

新本堂の外壁は梵字で覆われている。
深川不動尊 開運出世稲荷 深川不動尊 開運出世稲荷 

 ご本尊吒 枳尼天(深川不動尊は、口篇に毛の横棒3本が2本の「吒」枳尼天とするが、表示できない。 荼枳尼天 だきにてん)尊は、大本山成田山新勝寺の境内に御座す「成田山出世稲荷」のご分霊を勧請奉祀いたしました。社殿は檜皮葺総檜造り向拝及び各部分には見事なまでの彫刻を施した日本建築の粋凝らし逸作で、社殿の周囲には開運招福を願うご信徒の奉献によるのぼり幡がはためき、境内は活況を呈しております。例大祭は毎年2月15日に、開創紀念大祭は毎年9月15日に執り行われ、群参ご信徒により一層の賑わいを見せます。

参道には吒 枳尼天(荼枳尼天)の赤い幟が立ち並ぶ。
東京メトロ 東西線 門前仲町駅 東京メトロ 東西線 門前仲町駅 



 
万歩計 トップ 散策点描 目次    初夏の下町散策(銀座~日本橋~深川不動尊)H270521 目次  下町散策(銀座~日本橋~深川) 目次  兜神社~東京証券取引所~茅場町駅    ページ トップ