|
東京メトロ 日比谷線 築地駅
築地駅〜築地場外市場〜築地本願寺〜聖路加国際病院〜鐵砲洲稲荷神社〜中央大橋〜住吉神社〜月島駅
【撮影記録】
平成26年 9月 16日 晴れ
10:45〜12:55 7,300歩(歩行距離 概算 5.1km 地図上 5.1)
天気予報では曇りで27℃前後のはずだったが、最高気温29.5℃となり、蒸し暑さも加わって体力不足からくる疲労感は大きかった。水分補給も頻繁に行わざるを得なかった。
12時半頃茨城で震度5弱の地震があり、23区でも震度4だった。しかしこの頃は中央大橋を渡っており、揺れは全く感じなかった。帰宅後テレビで大騒ぎをしているので初めて知った。 |
|
新大橋通り 南西に進む
新大橋通りの向いには築地本願寺の正門と本堂が見える。 |
|
新大橋通り 築地四丁目交差点で右折、もんぜき通り(新大橋通り)へ |
|
もんぜき通り(新大橋通り) 築地場外市場を歩く |
|
もんぜき通り(新大橋通り) 築地場外市場を歩く |
|
もんぜき通り(新大橋通り) 市場橋交差点で左折、波除通りへ
交差点を渡った所には国立がん研究センター中央病院があり、左後方には朝日新聞本社がある。 |
|
波除通り 築地場外市場を散策
欧米人の小グループは昔からだが、一時騒々しくて傍若無人だった中国人ツアー客が減り、東南アジア系のツアー客が増えている。 |
|
波除通り 築地場外市場を散策
いくつかの玉子焼き店があるが、そのほとんどが寿司店などに卸す甘ったるい玉子焼きである。その中で老舗の玉定は料理店に卸す出汁巻きもあり、その特徴を記した案内がある。
各店とも切った玉子焼きを100円で販売しており、買うために長い列ができている。 |
|
波除通り 築地場外市場を散策 |
|
波除通り 築地場外市場の突き当たりにある波除神社
波除稲荷神社は、約350年前、江戸開府に伴う市街整備のの築地埋め立ての際、激しい波や風によって困難を極めた工事を無事に治めたといわれる御神体か祀られている。築地という場所柄、「すし塚」、「玉子塚」、「活魚塚」、「海老塚」、「鮟鱇塚」なども祀られている。 再建された天井大獅子、お歯黒獅子でも有名である。 |
|
築地 波除神社 |
|
築地 波除神社
波除稲荷神社の創建は万治年間(一六五八〜一六六一)と伝えられています。 築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。 波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をねり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(一八四八)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年六月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井大獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。 また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚たちが天保九年(一八三八)に奉納したものです。江戸時代、現在の築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文化財です。 |
|
築地 波除神社 社殿 |
|
築地 波除神社 獅子殿 天井大獅子
社殿に向かって右側にあり、大獅子は築地獅子祭として有名だったが、江戸時代末に焼失し、平成2年に再建された。 |
|
築地 波除神社 玉子塚
お歯黒獅子の隣にある。 |
|
築地 波除神社 お歯黒獅子
雌の大獅子『弁財天・お歯黒獅子』
江戸時代に東都名物と伝えられた雄の大獅子(天井大獅子)が平成二年に再興され更に九年に木の収縮を待ち八十五年ぶりに担いでの大獅子巡行が復活し、雌の大獅子も平成十四年の本祭りに、此れもまた名物で在りました『お歯黒獅子』として高さ一.八m、幅二.五m、重さ約七百kgの朱塗りに歯に鉄(かね)をさした艶やかな姿を表しました。
此のお歯黒獅子の雌を表す宝珠の角の内に江戸期の神社御創建と時同じくして境内社にお奉りされておりました市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)いわゆる弁財天の御神像をこの慶事に古に習い紫水晶を御霊として抱く姿の木彫座像で新調されてお納められました。また担ぎます時の見返り幕も弁財天の艶やかな立ち姿を友禅染に刺繍を施し新調されました。
学芸の才能と、豊かな財をなす、福徳の神『弁財天』として再興された『お歯黒獅子』、どうぞ末永くお詣り下さい。 |
|
築地 波除神社 お歯黒獅子
|
|
築地 波除神社 社殿左横の石碑群
社殿横にはひっそりと多くの石碑や十二支の像が立っている。 |
|
築地 波除神社 御鎮座330年 記念事業趣旨書
御鎮座330年を迎える昭和65年の記念事業の趣旨書が掲げられている。昭和65年は平成2年であり、大獅子頭はこの事業で再興された。 |
|
波除通り 突き当りの築地六丁目交差点で左折、晴海通りへ |
|
晴海通り 築地六丁目交差点 軍艦操練所跡
以前は波除通りの交差点手前にあった。今は内容も一新して晴海通りの勝どき橋側にある。
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(一八五七)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。 万延元年(一八六〇)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(一八六四)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。 設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
慶応元年(一八六五)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。 |
|
晴海通り 門跡橋交差点 界隈案内図 |