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築地本願寺散策H260916

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 築地本願寺 南門 築地本願寺 南門 

晴海通りを北上、門跡橋交差点の先の奥まった所に南門がある。
 築地本願寺 南門 築地本願寺 本堂前広場 

駐車場も兼ねている。
築地本願寺 本堂 築地本願寺 本堂 

築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の直轄寺院であり、首都圏における開教活動を担う関東最大の念仏道場です。その発祥は1617 (元和3)年、西本願寺(京都)の別院として建立されました。浅草・横山町にあったことから「江戸浅草御堂」と呼ばれていましたが、1657 (明暦3)年明暦の大火により焼失。大火後の区画整理のため、幕府より代替地として指定されたのは、八丁堀の海上でした。
そこで佃島の門徒が中心となり、海を埋め立てて地を築き1679(延宝7)年に再建され、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。この時の本堂の正面は西南(現・築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりは58ヶ寺の寺院からなる寺内町でした。
1923(大正12)年、関東大震災にともなう火災により焼失したため、建築家の伊東忠太氏の設計により、古代インド仏教様式の外観で1934(昭和9)年に現本堂が落成しました。2011(平成23)年には、石塀と共に登録有形文化財に登録されました。
築地本願寺 本堂 築地本願寺本堂・大谷石積塀 築地本願寺 本堂 築地本願寺本堂・大谷石積塀 

 浄土宗本願寺派本願寺(京都西本願寺)の別院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和三年(一六一七)浅草近くの横山町に創建されました。
 江戸浅草御坊と称された当寺院は、明暦三年(一六五七)の大火で焼失した後、現在地に移転・再建されました。特に本堂の大屋根は、江戸湊に入る船の目印であり、江戸庶民によく知られた名所の一つでした。
 江戸時代から明治期にかけて何度か再建された木造の本堂は、大正十二年(一九二三)の関東大震災で焼失した後、昭和九年(一九三四)に現在の本堂(鉄骨鉄筋コンクリート造、地上二階・地下一階)となりました。
 西本願寺二十二世宗主・大谷光瑞の依頼を受けた、設計者の建築家・伊東忠太(一八六七〜一九五四)は、日本の伝統的な寺院様式ではなく、仏教の発祥地であるインドの建築様式を独自の解釈で外観に取り入れ、特異な雰囲気をもつ伽藍を創出しました。
 花崗岩が用いられた建物中央の本堂は、上部に銅板で葺いた巨大な円形屋根がのせられ、左右対称にのびた翼部には鐘楼と鼓楼の塔屋を置き、正面中央と左右の入口には独特の曲線による破風を設けています。
 内部は伝統的な浄土真宗寺院の本堂形式でありながら、外観各部にはインド風の建築手法が見られ、入口の破風・柱頭飾り・屋根上の尖塔、さらに細部の装飾が一体となり、全体として調和のある外観を創り出しています。
 当寺院本堂は、建築家・伊東忠太が最新の技術を用いて東洋的な建築を追求した典型例であるとともに、秀逸な建築デザインを保持する震災復興期の貴重な建造物といえます。また、本堂とほぼ同時期に建築された外周の石積塀も共通のデザインを踏襲しており、本堂と一体をなす貴重な建造物となっています。
 これらの建造物は、平成二十三年に国の登録有形文化財として登録されました。
築地本願寺 本堂入口 築地本願寺 本堂入口 

自由に立ち入ることが出来る。本堂内は椅子席で、教会のようである。
築地本願寺 本堂 築地本願寺 本堂 

阿弥陀如来〈正面〉
御本尊・阿弥陀如来は、極楽浄土にあって、大悲の本願をもって生きとし生けるものすべてを平等に救済してくださる仏さまです。親鸞聖人は和讃に「摂取して捨てざれば阿弥陀と名づけたてまつる」と、述べられています。お念仏は、私たち全てを救いとってくださる阿弥陀如来への報恩感謝のしるしです。

宗祖親鸞聖人御影〈正面右〉
親鸞聖人は、1173年に京都の日野の里でお生まれになりました。9歳から比叡山で学ばれましたが、29歳で師・法然聖人と出遇い、本願念仏の道に入られ、念仏停止による越後流罪を経て、関東の地で主著『教行信証』の執筆を始められました。煩悩に満ちた私たちは、阿弥陀如来のみ教えを仰ぐことこそ、苦しみの世を生き抜く道である、と90年の生涯をかけてお示しくださり1263年ご往生されました。
築地本願寺 本堂前広場 築地本願寺 本堂前広場 
築地本願寺 燈籠 光顏巍巍 築地本願寺 燈籠 光顏巍巍 

光顏巍巍(こうげん ぎぎ)とは、「世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何より尊い」という意味だそうである。
築地本願寺 凱旋釜、寄附 公孫 築地本願寺 凱旋釜、寄附 公孫 

本堂に対して向かって右側の新大橋通り沿いには幾つもの碑が建っている。

右の小さな碑には「公孫」と記されており、「樹」はないが後方の木はイチョウ(公孫樹)である。二つの碑の由来についての案内はない。
築地本願寺 凱旋釜 築地本願寺 凱旋釜 

謂れは全く分らないが、側面に「満州軍総参謀長陸軍大将児玉源太郎」と彫られており、日露戦争がらみである。

後日サイトを調べていたら由来についての説明があった。
築地本願寺 台湾物故者の霊碑 築地本願寺 台湾物故者の霊碑 

太平戦争終了後、台湾で亡くなった人々の墓地が荒れ果てていたので、遺骨を収集し築地本願寺に遺骨安置所が設けられた。
築地本願寺 台湾物故者の霊碑 築地本願寺 台湾物故者の霊碑 
築地本願寺 日清戦争 碑 築地本願寺 日清戦争 碑 

案内板がないので分からないが、近衛師団長野津道貫書と書かれている。
 築地本願寺 日露戦争 後備第一師団記念碑 築地本願寺 日露戦争 後備第一師団記念碑 

築地本願寺の南西の角に建っており、風化もしているため、読みにくい。日露戦争の後備第一師団の参陣記念塔である。題字は鴨緑江行軍司令官の川村大将である。
 築地本願寺 日露戦争 後備第一師団記念碑 築地本願寺 日露戦争 後備第一師団記念碑 
築地本願寺 正門 築地本願寺 正門 

正門を出て右折、新大橋通りを北東に進む。



 
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