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谷中霊園〜諏訪台通り(初音のみち)〜朝倉彫塑館

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谷中霊園の東沿いに北上 谷中霊園の東沿いに北上 
谷中霊園 入口 谷中霊園 入口 
谷中霊園 案内図 谷中霊園 案内図 

方位は左が北で、現在地は中央の赤点である。右の黄色のブロックは寛永寺の徳川家墓所で、下中央の緑のブロックがいわゆる谷中霊園である。

芋坂から来たため、地図の方位が実感と合わず、地図では北の山手線は東、と考えると分かりやすい。現在地から緑のブロック図の十字の縦線を下り、横線と交差する所が天王寺五重塔跡である。
縦線がぎんなん通りで霊園を東西に、横線はさくら通りで南北に走る中央通りである。
谷中霊園 入口 谷中霊園 入口 
谷中霊園 ぎんなん通り 谷中霊園 ぎんなん通り 
谷中霊園 天王寺駐在所 谷中霊園 天王寺駐在所 

上野公園から日暮里駅に向かうさくら通りと、ぎんなん通りとが交差する地点で、交番がある。
谷中霊園 天王寺駐在所 谷中霊園 天王寺駐在所 

交番の左手奥に天王寺の五重塔跡がある。
谷中霊園 天王寺五重塔跡 谷中霊園 天王寺五重塔跡 

最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で消失した。 罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅悸造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月九日放火により消失した。
谷中霊園 天王寺五重塔跡 谷中霊園 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 天王寺五重塔跡 谷中霊園 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 
谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 谷中霊園 ぎんなん通り 中村正直墓(都指定旧跡) 

 明治時代の教育者、啓蒙学者。天保三年(一八三二)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇という。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応二年(一八六六)幕府の英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
 明治五年(一八七二)新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)校長就任、訓盲院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員も歴任した。
 明治二四年六月七日、六十歳で病没。葬儀は神葬で行われた。
 正直は、西周・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に務め、日本近代化に貢献した。
 訳著書に「西国立志伝」「自由之理」などがある。
谷中霊園 ぎんなん通り出口 谷中霊園 ぎんなん通り出口 
谷中霊園 ぎんなん通り出口 谷中霊園 ぎんなん通り出口 
谷中霊園 突き当りを右折、諏訪台通り(初音のみち)へ 谷中霊園 突き当りを右折、諏訪台通り(初音のみち)へ 

突き当りは、狩野芳崖墓(台東区史跡)がある長安寺である。
諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 諏訪台通り(初音のみち) 長安寺 狩野芳崖墓(台東区史跡) 

 明治初期の日本画家で、文政十一年(一八二八)長府藩御用絵師狩野狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
 明治維新後、西洋画の流人により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったか、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
 明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十ー歳で没した。
諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 
諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 

 赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。
 四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。
 寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。 
 本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝られ、現在でも霊を弔う人が訪れている。
諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 諏訪台通り(初音のみち) 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺 
諏訪台通り(初音のみち) 谷中トラモント 諏訪台通り(初音のみち) 谷中トラモント 

谷中一帯は典型的な寺町であるが、しゃれた店があった。
諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 

 近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(一八八三〜一九六四)の邸宅兼アトリエである。
 朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。
 中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうががえる。屋上庭園は、かって、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が疏菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園事例としても貴重である。
 昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十ー年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。
諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 
諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 諏訪台通り(初音のみち) 朝倉彫塑館 

平成21年4月1日から25年3月まで、保存修復工事のため、長期休館となっている。



 
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