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吉原弁財天〜旧吉原遊廓散策〜吉原大門交差点

【関連サイト】   台東区 北めぐりん(H21−08−15)(入谷ふれあい市場前〜千束二丁目〜千束小学校前)
  秋の浅草界隈散策(かっぱ橋道具街、浅草寺、今戸神社、鷲神社)H261107(吉原大門交差点〜吉原散策〜一葉記念館)

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国際通り 千束一丁目交差点で左折、せんわ通りへ 国際通り 千束一丁目交差点で左折、せんわ通りへ 
国際通り 千束一丁目交差点で左折、せんわ通りへ 国際通り 千束一丁目交差点で左折、せんわ通りへ 

台東区のコミュニティバスである北めぐりんは、金美館通りを経てこの交差点を右から入り、左のせんわ通りに進む。
せんわ通りを東進 せんわ通りを東進 
せんわ通り 北めぐりん #29 千束三丁目バス停 せんわ通り 北めぐりん #29 千束三丁目バス停 
せんわ通り カクヤス前交差点で左折 せんわ通り カクヤス前交差点で左折 

台東区立台東病院への道標が立てられている。北めぐりんも台東病院に行くため左折する。
せんわ通りを北上 せんわ通りを北上 
せんわ通り 吉原弁財天 せんわ通り 吉原弁財天 
せんわ通り 吉原弁財天 せんわ通り 吉原弁財天 
せんわ通り 吉原弁財天 新吉原花園池(弁天池)跡 せんわ通り 吉原弁財天 新吉原花園池(弁天池)跡 

 江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(一六五七)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。以来、昭和三三年までの三〇〇年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
 遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
 池は、花園池・弁大池の名で呼ばれたが、大正一二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、四九〇人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正一五年に造立されたものである。昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
せんわ通り 吉原弁財天 熱中症計は危険 せんわ通り 吉原弁財天 熱中症計は危険 

現在時刻は12:00で、温度35.6℃、湿度85%、熱中症計は厳重警戒である。

前回は一葉記念館前公園で11:30に測ったが、温度34.9℃、湿度45%、熱中症計は危険となった。

吉原弁財天の木陰にもかかわらず、温度で0.7℃上がり、湿度は大幅に上がった。大観音像の前で尼僧が般若心経を唱えており、一段落するまで休憩とした。
せんわ通り 吉原弁財天 大観音像 せんわ通り 吉原弁財天 大観音像 

大観音像の前で尼僧が般若心経を唱えているが、いつまで経っても終わらないため、歩きを再開した。般若心経は短いお経なのですぐ終わると思っていた。
せんわ通り 吉原弁財天 大観音像 せんわ通り 吉原弁財天 大観音像 

大観音像の周りには関東大震災八十周年碑などの記念碑が立てられている。
せんわ通り 台東病院前 花園公園 せんわ通り 台東病院前 花園公園 
せんわ通り 台東区立台東病院 せんわ通り 台東区立台東病院 

台東区のコミュニティバスである北めぐりんは台東病院に寄った後元に戻り、カクヤス前交差点を直進して千束三丁目交差点に向かう。

せんわ通りをさらに進むと吉原遊廓の仲之町通りとなる。
旧吉原遊廓 仲之町通り 千束保健センター交差点 旧吉原遊廓 仲之町通り 千束保健センター交差点 

交差点には仲之町通りの案内柱がある。左右の通りは京町通りである。
旧吉原遊廓 仲之町通り 千束保健センター交差点 旧吉原遊廓 仲之町通り 千束保健センター交差点 

旧町名由来 旧浅草新吉原京町一丁目

 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊廓開設を許可した。遊廓は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは″葭原″と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの京町一丁目は元和四年にできた町で、名の起こりは、そこで営業していた者の多くが京都出身者であったことに由来している。
旧吉原遊廓 仲之町通り 千束四丁目交差点 旧吉原遊廓 仲之町通り 千束四丁目交差点 

この交差点で揚屋通りと交差している。
旧吉原遊廓 仲之町通り 千束四丁目交差点 旧吉原遊廓 仲之町通り 千束四丁目交差点 

交差点から左方向に揚屋横丁を見た風景で、この道を直進するとよし原揚屋町一丁目案内柱がある。そこを左折すると一葉記念館へのY字路である。

2年前(平成26年)にこの道を歩いて一葉記念館に向かった。12時だというのに道の両側に黒服の客引きが並び、異様な光景だった。
旧吉原遊廓 仲之町通り 千束四丁目交差点 旧吉原遊廓 仲之町通り 千束四丁目交差点 

旧町名由来 旧浅草新吉原揚屋町

 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊廓開設を許可した。遊廓は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは″葭原″と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。揚屋町ができたのは、吉原が新吉原へ移転する際に、それまで各町にあつたいくつかの揚屋を一力所にまとめたときである。
旧吉原遊廓 仲之町通り 吉原交番前交差点 旧吉原遊廓 仲之町通り 吉原交番前交差点 

この交差点で江戸町通りと交差している。
旧吉原遊廓 仲之町通り 吉原大門の標識 旧吉原遊廓 仲之町通り 吉原大門の標識 
旧吉原遊廓 五十間通り 旧吉原遊廓 五十間通り 

吉原大門の標識から道はS字を描いて曲がっており、五十間通りという。これは日本堤から遊廓が直接見えないようにするためと言われる。
 旧吉原遊廓 五十間通り 吉原大門交差点 旧吉原遊廓 五十間通り 吉原大門交差点 

吉原大門交差点で土手通りに出て横断、日の出会商店街に進む。
土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 

 旧吉原遊廓の名所の一つでで、京都の島原遊廓の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったというところから「見返り柳」の名があり、
「きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
  見返れば意見か柳顔をうち」
など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。
土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 
土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 土手通り 吉原大門交差点 見返り柳 



 
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