飯田橋駅〜東京大神宮〜九段坂下


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JR 総武線 飯田橋駅 JR 総武線 飯田橋駅 
JR主催 飯田橋から市ヶ谷へ歴史のある江戸・東京を訪ねて 飯田橋駅RAMLA受付風景 JR主催 飯田橋から市ヶ谷へ歴史のある江戸・東京を訪ねて 飯田橋駅RAMLA受付風景 

飯田橋駅〜東京大神宮〜九段坂下〜清水門〜北の丸公園〜靖国神社〜番町界隈〜市谷亀岡八幡宮〜市ヶ谷駅(総行程 8.5km)
飯田橋 神楽河岸 飯田橋 神楽河岸 

飯田橋駅の東口と西口を結ぶ外堀通り沿いに作られた人工の川である。
神楽坂下交差点 神楽坂下交差点 

コースは左折して牛込橋に向うが、「ペコちゃん焼」の看板が見え、右折して寄り道する。
神楽坂不二家 「ペコちゃん焼」 神楽坂不二家 「ペコちゃん焼」  

品質問題で大揺れの不二家であるが、フランチャイズ店であるこの店独自の「ペコちゃん焼」を買う人が地下鉄構内まで溢れていた。何度もこの前を通っているが、これほどの繁盛はなく、店の存在さえ知らなかった。
飯田橋駅 西口 飯田橋駅 西口 

受付の東口から外堀通り沿いに300mで、結構遠く感じる。
牛込見附(牛込御門跡) 牛込見附(牛込御門跡) 

 この橋は、「牛込橋」といいます。
 「御府内備考」によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込□」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と「牛込方」(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
牛込見附(牛込御門跡) 牛込見附(牛込御門跡) 
牛込見附(牛込御門跡) 牛込見附(牛込御門跡) 

江戸城郭門の一つである牛込見附の一部の石垣が現在も残っている。
東京大神宮 東京大神宮 

「東京のお伊勢さま」と親しまれる神社。明治天皇により東京での伊勢神宮の遥拝殿として明治13年、日比谷に創建。日比谷大神宮と称された。昭和3年に現在地に移ると飯田橋大神宮と呼ばれるようになり、戦後に「東京大神宮」と改めた。神前結婚式創始の神社であり、縁結びに御利益があるという。
東京大神宮 東京大神宮 
徽章業 発祥の地碑 徽章業 発祥の地碑 

東京大神宮から目白通りに出た所にある。

この奥、大神宮通り向かって左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変繁栄しました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本帝国徽章商会から生まれたといわれています。そして現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。
徽章業 発祥の地碑 徽章業 発祥の地碑 
東京女子医科大学 発祥の地碑 東京女子医科大学 発祥の地碑 

吉岡弥生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院の中に東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ヶ谷仲之町に移転、のちに市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡弥生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町4丁目31番地に移り、関東大震災までありました。
東京女子医科大学 発祥の地碑 東京女子医科大学 発祥の地碑 
築土神社 築土神社 

九段下交差点手前で目白通りを右折、ビルの奥にある。

天慶3年(940)平将門の首を武蔵国豊島郡上平河村津久戸(千代田区大手町周辺)の観音堂に祀り津久戸明神と称したのが始まり。のちに田安明神と称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられた。江戸城拡張のため現在のJR飯田橋駅付近や新宿区筑土八幡町へと移転し、築土明神と改称。江戸城二の丸にあった東照宮の社殿が境内へ移築されるなど、徳川幕府との関係も深かった。明治7年に築土神社と改称。昭和29年、世継稲荷神社のある現在地へ移転した。
昭和館 昭和館 

築土神社脇の小道を通って安国通りに出ると、目の前に昭和館がある。九段下交差点の靖国通り沿いにある。

昭和10年頃から昭和30年頃までの戦中・戦後の国民生活についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を伝えるために作られた国立 の施設。
九段会館 九段会館 

昭和9年建築の旧軍人会館。九段下にあり、独特の様式は帝冠様式と呼ばれる。

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