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鈴ヶ森 大経寺右の旧東海道へ
品川宿から旧東海道を南下するコースは何度も歩いているが、逆コースは初めてである。 |
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旧東海道 しながわ区民公園
大経寺からすぐの所にある公園で、木々が多い公園である。 |
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旧東海道を北上
旧東海道という表示がなければ普通の道路である。 |
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旧東海道 浜川橋(涙橋)手前で左折、天祖諏訪神社(福禄寿)へ |
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旧東海道 天祖諏訪神社(福禄寿) |
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旧東海道 天祖諏訪神社(福禄寿)
由緒
祭神 天照大御神、豊受大神、建御名方神
天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし神威昭々郷土の発展と共に今日にいたりました。
昭和三十六年一月氏子各位の要望により天祖神社諏訪神社御改築奉賛会が設立せられ新社殿を建立し昭和四十年十一月一日両社を合祀いたしました。 |
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旧東海道 天祖諏訪神社(福禄寿)
浜川町・元芝の鎮守・氏神で、古くは神明社と諏訪社として立会川をはさんで並び祀られていた。
昭和40年に2社を合祀し、天祖諏訪神社と称されるようになった。境内末社には稲荷神社や厳島神社もある。 |
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旧東海道 立会川に架かる浜川橋(涙橋)
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。
慶安4年(1651)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。 |
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旧東海道 立会川に架かる浜川橋(涙橋) |
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旧東海道 左折して立会川駅商店街へ |
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京急 立会川駅商店街 |
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立会川駅前 二十歳の龍馬像
浜川砲台で守備にあたったといわれる坂本龍馬にちなみ、高知市から平成16年に坂本龍馬像が贈られた。現在は立会川駅前の北浜川児童遊園に鎮座している。
以前の坂本龍馬像は駅前にあり、色々な説明板が立っていた。場所も少し離れた小公園に移り、銅像になったせいか、重厚さが出てきた。これも前年(平成22年)の大河ドラマの効果である。
道の反対側には商店街の接待所が設けられ、汁粉が振舞われていた。 |
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立会川駅前 二十歳の龍馬像
嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835−1867)は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたります。
当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。
地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事績に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議つて、二十歳の龍馬像としてこれをここに建立したものです。
なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。 |
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立会川駅前 二十歳の龍馬像
龍馬が世界と出会つたまち品川
ペリーが初めて来航した嘉永六年(一八五三)、一九歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。
土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。
同年九月には「興国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は興国の首を打取り・・」と、父親に手紙を書いています。
品川での黒船警固から、龍馬の幕末は出発したのです。 |
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旧東海道 吉田商店角で右折
ここから先は旧東海道といっても特に何も無いこともあり、勝島運河に向かうコースを設定したのかな、とも思う。 |
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突き当りを左折、勝島運河へ |
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勝島運河
倉庫などが並ぶ勝島運河沿いには、「しながわ花海道」と名づけられた市民花壇があり、四季の花が咲く散歩道となっている。 |
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勝島運河 立会川河口堤防船だまり |
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勝島運河 立会川河口堤防船だまり |
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勝島運河 堤防のコスモス
「花街道」というのがおこがましいほど疎らである。 |
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勝島運河 鮫洲橋
勝島運河は直角に右に曲がり、鮫洲橋がある。 |
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勝島運河から側道に入り、突き当りを左折 |
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突き当りの交差点で右折、旧東海道へ |