深川資料館通り〜清澄庭園〜水天宮
【関連サイト】 | 東京の名園 清澄庭園・清澄公園 | |
江戸百景 深川州崎十万坪(H16−11−03) | ||
直前のページに戻ります。
写真の一覧表へ
深川資料館通り(花みずき商店街) 深川資料館通りは、東京都現代美術館を三ツ目通りに沿って北上、清洲橋通りとの中間で左折、清澄通りに向かう道である。実際に歩くと、道のほとんどは満開の花みずきの並木道で、花みずき商店街としてのイベントが行われている。 |
|
深川資料館通り(花みずき商店街) 花みずきと言うと白い花をイメージするが、このように鮮やかな紅色のものもある。 |
|
深川資料館通り(花みずき商店街) 通りの2/3は花みずきの並木道だが、唐突に交差点を渡るとケヤキに替わる。 |
|
深川資料館通り(花みずき商店街) 深川資料館 当館には、江戸時代の深川の生活を再現した資料館展示室と、区民の方の催し物等の会場に最適な小劇場、レク・ホールがあります。長屋2棟をはじめ八百屋、春米屋、船宿、火の見櫓など実大建築物に生活用品具類を配し、さまざまな情景のもとに、江戸深川 の日常生活をそのまま再現展示しています。ここには最新の科学技術と古来の伝統技術が結集し、なつかしい人情と心意気の世界を目のあたりにくりひろげています。 |
|
深川資料館通り(花みずき商店街) 深川資料館 | |
深川資料館通り(花みずき商店街) 花みずき商店街らしさはこれだけだった。おかっぱ頭の少女を模した黄色の人形がまとめられているが、異様な雰囲気である。 |
|
深川資料館通り(花みずき商店街) 零巌寺 寛政の改革を行った松平定信の墓と、江戸六地蔵がある。 松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)、藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。 この霊巌寺にある墓は、昭和3年に国の史跡に指定されています。 |
|
深川資料館通り(花みずき商店街) 零巌寺 | |
清澄通りに出ると、真向かいに清澄庭園がある。 | |
清澄庭園 清澄庭園は江戸の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸と言われ、関宿の城主久世大和守の下屋敷を経て明治になり、三菱財閥の岩崎彌太郎が深川親睦園として買い取り、その後隅田川から水を引いて大泉水を作ったりした。 関東大震災で避難場所としての価値に注目され、岩崎家から東半分を東京市に寄付された。戦後に西半分も清澄公園となった。 |
|
清澄公園 | |
清澄公園 | |
清澄公園 | |
平賀源内電気実験の地 清洲橋東詰交差点から隅田川沿いに少し下流に歩いた読売新聞の建物脇にある。 平賀源内は享保13年に高松藩士の子として生まれた。様々な実験や、物産開発などに努めた。 |
|
平賀源内電気実験の地 | |
清洲橋 | |
清洲橋 隅田川テラスを下流に向かって歩く。遠くに見える橋は箱崎JCTの隅田川大橋である。 |
|
隅田川テラス 遠くに見える隅田川大橋は昭和54年に架橋され、高速9号線と一般道が上下に重なった珍しい橋。架橋された箱崎周辺は、古くは大名屋敷の並ぶ隅田川Ξ角州のひとつであったか、現在は高速のインターチェンジと東京エアーターミナル(TCAT)と交遊の要衝か建っている. |
|
隅田川テラス 歩き始めて2kmたった永代橋手前にあった標識は2.0kmだった。 |
|
箱崎ジャンクション 正面の交差点は箱崎町交差点で、右手奥はTCATである。昔は成田行の電車も少なく、リムジンバスも限られた駅でしかなかった。そのため、出国手続きもできるTCATは持て囃された。今は寂れた感じがする。 |
|
東京メトロ(旧営団) 半蔵門線 水天宮駅 水天宮駅の南端であり、TCAT側である。水天宮は北端の出口を出て北上する。 |
|
ゴール風景 半蔵門線 水天宮駅 コンコース |