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黒田清輝記念館〜徳川綱吉霊廟勅額門〜寛永寺根本中堂

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都道神田白山線 東京国立博物館沿いに西進 都道神田白山線 東京国立博物館沿いに西進 
都道神田白山線 旧因州池田屋敷表門(黒門) 都道神田白山線 旧因州池田屋敷表門(黒門) 

 この門は、もと因州(現在の鳥取県の一部)池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。
 創建年代は明らかでないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。
都道神田白山線 旧因州池田屋敷表門(黒門) 都道神田白山線 旧因州池田屋敷表門(黒門) 

国立東京博物館前交差点の右手すぐにある門で、黒門とは言え、彰義隊の上野戦争の激戦地である黒門とは違う。こちらの黒門は戦死者を葬った縁で、南千住の円通寺にある。
都道神田白山線 旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財) 都道神田白山線 旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財) 

 この建物は、明治二十三年(一八九〇)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育の記念碑的な存在である。
 中央天井をヴォールト状(かまぼこ型)に高くし、視覚、排気、音響上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。
 この奏楽堂からは、滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきたが、老朽化が進み、取壊しの危機にひんしていた。しかし、音楽関係者を始めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和六十二年三月、歴史と伝統を踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に復元された。
都道神田白山線 黒田清輝記念館手前で右折 都道神田白山線 黒田清輝記念館手前で右折 

東京国立博物館の先は東京芸術大学のキャンパスがあり、奏楽堂や明治の画家黒田清輝の記念館などが並ぶ。
国際子ども図書館(旧帝国図書館) 国際子ども図書館(旧帝国図書館)
 
国際子ども図書館(旧帝国図書館) 国際子ども図書館(旧帝国図書館)
 
国際子ども図書館(旧帝国図書館) 国際子ども図書館(旧帝国図書館) 

 この図書館は、明治5年8月湯島の聖堂内に開館した書籍館(文部省博物局所管)以来の伝統を受け継いでいる。書籍館は幾度か名称の変更を経て、明治30年4月に帝国図書館となった。この建物は明治39年4月帝国図書館新築工事の第一期分として竣工したものである。
 当初の建設構想は大きく、全部が完成すると東洋一の図書館になる予定であったが、当時の財政事情により全体の四分の一程度が完成するに留まった。その後、建物の左側の部分が昭和4年に増築され、現在の規模となった。
 昭和24年からは、国立国会図書館支部上野図書館として一般公衆の利用に供することを主たる目的として運営されてきたが、改修工事を行い、平成12年5月5日国立国会図書館国際こども図書館として開館、現在に至っている。躯体はほぼ創建時のままとすることで、全体として洗練されたネオ・ルネッサンス調の風格のある建築となり、明治の雰囲気を今に残している。
東京文化財研究所 東京文化財研究所 

本来のコースは国際こども図書館の少し北の三叉路で左折するが、隣接する東京文化財研究所の先に徳川綱吉霊廟勅額門があるので立ち寄ることにした。
道の反対側は区立上野中学校である。
上野寛永寺 第三霊園 上野寛永寺 第三霊園 

葵の御紋がまぶしい門の奥に徳川綱吉霊廟勅額門がある。
上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門 上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門 

以前はこの案内板しかなかったが、平成20年の大河ドラマの天璋院篤姫ブームにより、その説明板も脇に設けられていた。
上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門 上野寛永寺 重文 徳川綱吉霊廟勅額門 

 五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。
綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
 元禄十一年(1698)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現・湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
上野寛永寺 天璋院篤姫墓所(非公開) 上野寛永寺 天璋院篤姫墓所(非公開) 

 天璋院篤姫は天保六年(一八三五)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただだけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ)) 嘉永六年(一八五三)、島津本家二十八代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。その後、安政三年(一八五六)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同年に徳川十三代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。
 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より十四代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか二年後の安政五年(一八五八)に逝去され、十四代将軍には紀州の慶福(よしとみ(のちの家茂公))が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。) また同年、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。
 公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。明治になると、わずか六歳で徳川家を継いだ十六代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治十六年十一月に四十八歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。
 なお、墓所は五代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。
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右は区立上野中学校のグランドである。
区立上野中学校先の三叉路を右折 区立上野中学校先の三叉路を右折 
東叡山寛永寺 東叡山寛永寺 
東叡山寛永寺 根本中堂 東叡山寛永寺 根本中堂 
東叡山寛永寺 根本中堂 東叡山寛永寺 根本中堂 
浄名院前交差点で左折、言問通りへ 浄名院前交差点で左折、言問通りへ 



 
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