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都道 神田白山線 両大師橋下歩道橋をくぐる  |
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都道 神田白山線 両大師橋に向かう急坂 
隣接するビルの5〜6階に相当する高さで、かなりの急坂である。 |
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都道 神田白山線 両大師橋  |
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両大師橋から急坂を下る東西めぐりん 
東西めぐりんは谷中周遊を終え、上野から浅草寺に向かう。 |
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都道 神田白山線 両大師橋  |
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都道 神田白山線 東叡山寛永寺 両大師 
両大師橋を渡ってすぐ右手にある。
正保元年(一六四四)に寛永寺開山天海僧正の像を安置するため建立された。後に延暦寺の慈恵大師の像も安置されたため、、両大師となった。 |
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都道 神田白山線 国立科学博物館脇で左折  |
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上野公園 国立科学博物館  |
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上野公園 東京文化会館 
左折すると上野駅の公園口である。 |
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上野公園 正岡子規記念球場  |
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上野公園 正岡子規記念球場 
東京文化会館前の球場前にあり、ボールを象った正岡子規の句碑である。
春風や
まりを投げたき
草の原 |
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上野公園 正岡子規記念球場 
正岡子規(1867〜1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる.子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼ−る)という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。
子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2−5−11)の名で公開されている。
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。 |
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上野公園 摺鉢山古墳 
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているるところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などか出土し、約千五百年前の前方後円形式の古噴と考えられている。
現存長七十m、後円部径四十三m、前方部幅は最大部で二十三m。後円部の道路との比高は五mである。
丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。
五條天神の創立年代は不明であるが、尭恵法師は『北国紀行』のなかで、文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、
契きて たれかは春の
初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。
清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(一六八八〜一七〇三)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。
現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。 |
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上野公園 摺鉢山古墳  |
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上野公園 摺鉢山古墳脇を右折  |
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上野公園 摺鉢山古墳 界隈案内図  |
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上野公園 突き当たりの五條天神社前で左折  |
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上野公園 咲き誇る寒桜  |
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上野公園 清水観音堂  |
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上野公園 清水観音堂裏で坂を下る  |
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上野公園 不忍池 左折して周回  |