|
不忍池 駅伝の碑
駅伝の歴史ここに始まる
我が国、最初の駅伝は、
奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が
大正六(一九一七)年四月二十七日、二十八日、二十九日の三日間にわたり開催された。
スタートは、京都・三条大橋、
ゴールは、ここ
東京・上野不忍池の
博覧会正面玄関であった。 |
|
不忍池 冬枯れの蓮池 |
|
不忍池 冬枯れの蓮池 |
|
不忍池 下町風俗資料館 |
|
不忍池 冬枯れの蓮池 |
|
不忍池 池之端一丁目交差点から 不忍通りへ |
|
不忍通り 池之端一丁目交差点 |
|
不忍通り 天神下交差点で右折、春日通りへ |
|
春日通り(切通坂)を西進
切通坂
『御府内備考』には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名かある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯境内を出れば本卿切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木 |
|
春日通り(切通坂) 湯島天神 夫婦坂 |
|
春日通り(切通坂) 旧町名由来
旧湯島切通坂町
湯島天神の西側、春日通りを隔てて南北にあった。南部はもと棟梁屋敷といい、北部は切通片町と称した。
棟梁屋敷は、大工棟梁十人の拝領地である。徳川家康の江戸入りのとき、遠州浜松から来て、江戸城修築工事に従事した者の子孫が、享保12年(1727)町屋とした。この頃は松原であったという。
切通片町は、元和2年(1616)幕府中間方22名の大縄拝領地(一括してもらう広い土地)で、切通坂に沿った片側町屋なので切通片町と呼んだ。
明治2年、この両町を併せて切通坂町とした。町名は切通坂からとった。
麟祥院前に猿が飴袋を持つ看板の飴屋猿飴があった。 |
|
春日通り 本郷消防署前交差点 |
|
春日通り 本郷三丁目交差点で右折、本郷通りへ |
|
本郷通り 東大赤門 |
|
本郷通り 本郷弥生交差点で言問通りを渡る |
|
本郷通り(岩槻街道) 南北線 東大前駅 |
|
南北線 東大前駅 ゴール風景
アンケートを記入した人のみ、参加賞のポリエステル製の荷物袋がもらえる。 |