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紀尾井坂〜清水谷公園〜赤坂見附

【関連サイト】   東京メトロ 南北線H2008(永田町〜清水谷・紀尾井坂〜四ツ谷)


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紀尾井坂 紀尾井ホール 紀尾井坂 紀尾井ホール 
紀尾井坂を下る 紀尾井坂を下る 

この坂を紀尾井坂といいます。「新撰東京名所図絵」には「喰違より清水谷公園の方へ下る坂を称う」また「紀尾井坂は、紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に鼎立し存しを以って名つく」とかかれています。
紀尾井坂 清水谷交差点で右折 紀尾井坂 清水谷交差点で右折 

紀尾井坂を下った所が清水谷交差点であるが、交差点名の表示はない。
清水谷交差点で右折、紀尾井町通りへ 清水谷交差点で右折、紀尾井町通りへ 
紀尾井町通り 清水谷 紀尾井町通り 清水谷 
紀尾井町通りを南下 紀尾井町通りを南下 
紀尾井町通り 清水谷公園 紀尾井町通り 清水谷公園 

紀尾井町を南北に貫いているこの公園前の通りは、中でも、公園を出て右に上った交差点の辺りは「清水谷」と呼ばれてきました。尾張屋板江戸切絵図にも「シミズタニ」と記されています。 
 それは、周囲から清水が湧き出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。
 この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しましました。
紀尾井町通り 清水谷公園 紀尾井町通り 清水谷公園 

案内板の横にあり、復元された湧水である。
紀尾井町通り 清水谷公園 紀尾井町通り 清水谷公園 
紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 

明治11年、清水谷にて参議大久保利通が赤坂御所に向かう途中暗殺された。その功績を称える人々が、明治21年にこの地に哀悼碑を建てた。赤坂プリンスホテルの隣の清水谷公園にある。
紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 

 明治一一年(一八七八)五月一四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所に出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
 また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三、金井之恭、奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治二一年(一八八八)五月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
 「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると六.二七メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
紀尾井町通り ホテルニューオオタニ 紀尾井町通り ホテルニューオオタニ 

右はガーデンタワー、左はガーデンコートである。
紀尾井町通り 取り壊し予定の赤坂プリンスホテル 紀尾井町通り 取り壊し予定の赤坂プリンスホテル 

施設老朽化とホテル業界の競争激化で、昨年(平成22年)4月に閉館となった。
紀尾井町通り 弁慶橋 紀尾井町通り 弁慶橋 

弁慶橋の袂には「紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡」の碑がある。
紀尾井町通り 弁慶橋 紀尾井町通り 弁慶橋 

 この橋を弁慶橋といいます。橋が架かっている弁慶堀とともに、「江戸城外堀跡」として文化財指定されています。
 ところで、ここには江戸時代は橋は架かっておらず、人々は堀沿いに東に進んで赤坂門を出なければなりませんでした。
 ここに、橋が架けられたのは明治二十二年(一八八九)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治十八年(一八八五)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。
 和風の美しい橋の姿は、春の桜・冬の雪景色を背景として明治以来東京の名所として親しまれ、絵葉書や写真・絵画の題材となっていました。
 現在の橋は、昭和六十年十二月に改築されたもので、全長四一・〇六メートル、幅ニニメートルです。架け替え前の弁慶橋には、親柱にそれぞれ擬宝珠がありました。筋違橋・日本橋・一ッ橋・神田橋・浅草橋の古い擬宝珠を集めて被せてあったといいます。現在は、それら古い擬宝珠は用いられていません。
紀尾井町通り 弁慶橋 紀尾井町通り 弁慶橋 
紀尾井町通り 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 紀尾井町通り 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 

 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸かありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は、慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩 主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています,、石高はほぼ55万5000石でした。明治5年、、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町という町名になりました。
紀尾井町通り 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 紀尾井町通り 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 
紀尾井町通り 赤坂見附交差点で左折、青山通り(国道246号)へ 紀尾井町通り 赤坂見附交差点で左折、青山通り(国道246号)へ 



 
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