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青山通り(国道246号) 最高裁判所 |
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青山通り(国道246号) 三宅坂交差点 社会民主党本部
言わずともかつての社会党本部である。雌鳥が鳴くと国滅ぶ、というが、無能、無策の雌鳥を交代させる気力もない歴史的遺産となって久しい。 |
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青山通り(国道246号) 三宅坂交差点で左折、内堀通り(国道20号)へ |
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内堀通り(国道20号) 三宅坂交差点 平和の群像
平和の群像は三宅坂交差点に立つシンボルで、その背後にひっそりと蛮社の獄で自刃した渡辺崋山誕生の碑がある。渡辺崋山は小藩三宅家の家老であり、その藩邸内で生まれた。三宅坂の名の由来である。 |
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内堀通り(国道20号) 三宅坂交差点 平和の群像
広告がわが国の平和産業と産業文化の発展に貢献した事跡は極めて大きい。わが社は昭和二五年七月一日その創立五十年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当たり、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功績を永久に偲ぶこととした。
西暦一九五〇年
株式会社 日本電報通信社
日本電報通信社は現在の電通である。 |
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内堀通り(国道20号) 三宅坂交差点 平和の群像 |
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内堀通り(国道20号) 渡辺華山誕生地
平和の群像の裏にあり、内堀通りからは見えない。
ここに三河田原藩の上屋敷が、かつてありました。
渡辺崋山は、名を定静、通称を登といいます。三河田原藩三宅家の藩士の息子として、寛政五年(一七九三)に上屋敷内の長屋で生まれました。文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。
天保三年(一八四二)に年寄役末席となり海防掛を兼務して以来、小関三英や麹町に塾を開いていた高野長英らと蘭学研究を始め、尚歯会を結成しました。
天保十年(一八三九)、いわゆる「蛮社の獄」により捕縛・投獄され同年十二月に在所蟄居を命ぜられ田原に向かうまで、四十年余りをこの地で過ごしまた。 |
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内堀通り(国道20号) 国立劇場 |
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内堀通り(国道20号) 国立劇場
半蔵門手前にある。 |
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内堀通り(国道20号) 半蔵門交差点手前 界隈案内図
右が北で、現在地は中央の半蔵門交差点手前である。 |
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内堀通り(国道20号) 半蔵門交差点
内堀通りは分岐し、左に曲がって新宿通り(国道20号)となる。内堀通りはそのまま直進し、都道401号となって千鳥ヶ淵を経て、靖国神社に向かう。 |
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内堀通り(国道20号) 半蔵門交差点
服部半蔵に因んだ半蔵門は、左の交番や警備車の奥にある。 |
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千鳥ヶ淵沿いの千鳥ヶ淵公園を北上
今は裸木であるが、4月初めには見事な桜並木となって花見客が溢れる。 |
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内堀通り(国道20号) 半蔵門交差点 界隈案内図
左が北で、現在地は中央の半蔵門交差点である。 |
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千鳥ヶ淵公園 自由の群像
新聞紙は現代人の生活必須の要器である。我国の新聞事業が日本の進歩福祉に貢献したるもの極めて多大である。仍て我国の新聞事業先覚者二十名を検証し、茲に自由の群像を建立す。其の銓衡は現在事業の代表的人士の衆議に諮り公正審重である。
是れ株式会社電通が創立五十周年に際会し、斯界に盡さんとする微意か。
西暦千九百五十五年
昭和三十年十一月三日
蘇峰 徳富猪一郎 撰
緒方竹虎 書 |
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千鳥ヶ淵公園 自由の群像
碑文を読むと、三宅坂の平和の群像と同じ時期、趣旨で建てられたようである。 |
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千鳥ヶ淵沿いの千鳥ヶ淵公園を北上 |
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千鳥ヶ淵公園 対墨日本人移住百周年記念碑
対墨日本人移住百周年記念
メキシコ国民より日本国民へ贈呈
1897−1987
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千鳥ヶ淵公園 対墨日本人移住百周年記念碑 |
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千鳥ヶ淵沿いの千鳥ヶ淵公園を北上 |
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内堀通り(都道401号) 千鳥ケ淵交差点で右折、代官町通りへ |