経王寺〜朝倉彫塑館〜谷中霊園〜
上野寛永寺〜鶯谷
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経王寺 谷中の「夕やけだんだん」のすぐ傍にある。明暦元年(1655年)に建立され、慶応4年(1868年)の上野戦争の際、敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃を受け、山門に幾つもの弾痕がある。 |
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経王寺 山門 | |
経王寺 山門 上野戦争での弾痕 上野彰義隊士をかくまったことから、新政府軍が攻撃した弾痕がいくつも残っている。 |
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経王寺 | |
朝倉彫塑館 近代彫刻の基礎を作った朝倉文夫のアトリエで、住居に作品やコレクションを展示している。 |
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朝倉彫塑館 | |
谷中霊園 江戸時代から寺院の多かった谷中は、今でも約60の寺院がある。霊園中央には幸田露伴の小説「五重塔」の舞台となり、昭和32年に放火により焼失した天王寺五重塔の跡が残る。 |
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谷中霊園 天王寺 五重塔跡 天王寺は元日蓮宗感応寺として建立、後に天台宗となり、天保4年(1833年)に天王寺と改称した。最初の五重塔は寛永21年(1644年)に建立、明和9年(1722年)の目黒行人坂の大火で焼失した。寛政3年(1791年)に再建された五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった。 |
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谷中霊園 天王寺 五重塔跡 | |
谷中霊園 | |
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 大原重徳は王政復古派の公卿として活躍した。文久2年(1862年)に勅使として将軍徳川家茂に幕政改革と攘夷の方策を整うべしとの勅諭を伝達したほか、慶応3年(1867年)の小御所会議で山内容堂、松平春獄と論争、徳川慶喜井の辞官納地を決めた。 |
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谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 | |
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 閑院宮載仁親王による神道碑である。 |
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谷中霊園 徳川慶喜の墓 | |
谷中霊園 徳川慶喜の墓 寛永寺ではなく、谷中霊園の南の端にあり、大原重徳の墓の近くにある。墓所は鉄柵があり、入ることは出来ない。 |
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谷中霊園 徳川慶喜の墓 | |
谷中霊園 徳川慶喜の墓 手前左側が徳川慶喜、右側が妻の墓である。 |
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上野寛永寺 | |
上野寛永寺 厳有院勅額門 厳有院とは4代将軍徳川家綱のことで、鶯谷駅の近くにひっそりとある。 |
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JR 山手線 鶯谷駅 | |
ゴールの鶯谷駅風景 |