鎌倉駅〜鶴岡八幡宮〜源頼朝公墓所〜
若宮大路〜由比ヶ浜



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【関連サイト】 有名神社 鶴岡八幡宮
鎌倉宮〜白旗神社〜鶴岡八幡宮〜鎌倉

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JR主催 湘南義経ウォーキング 〈第1弾 〉義経と頼朝の足跡を訪ねる鎌倉コース(鎌倉駅〜江ノ電 江ノ島駅) JR鎌倉駅 JR主催 湘南義経ウォーキング 
〈第1弾 〉義経と頼朝の足跡を訪ねる鎌倉コース(鎌倉駅〜江ノ電 江ノ島駅) 
JR鎌倉駅 

.鎌倉駅〜鶴岡八幡宮〜源頼朝公墓所〜若宮大路〜由比ヶ浜〜稲村ヶ崎〜七里ヶ浜〜満福寺〜江ノ電 江ノ島駅(総行程 11km)
受付風景 鎌倉駅 受付風景 鎌倉駅 
小町通りを北上 小町通りを北上 

小町通りは、駅のすぐ北にある赤鳥居から若宮大路の西側に並行しており、鶴岡八幡宮の西側を通って建長寺に向う道につながっている。若宮大路とは違った雰囲気の街並である。
小町通りを北上 小町通りを北上 
鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 
鶴岡八幡宮 舞殿 鶴岡八幡宮 舞殿 
鶴岡八幡宮 本宮と大銀杏 鶴岡八幡宮 本宮と大銀杏 
鶴岡八幡宮 鶴岡幼稚園 鶴岡八幡宮 鶴岡幼稚園 

参議院神奈川補選と、鎌倉市長選の投票所になっていた。
鶴岡八幡宮 東鳥居 鶴岡八幡宮 東鳥居 
源頼朝の墓 源頼朝の墓 

鶴岡八幡宮の東側にあり、更に東に行くと大塔宮護良親王を祭神とする鎌倉宮がある。
源頼朝は建久三年(1192)鎌倉に幕府を開いて、武家政治を確立しましたが、正治元年(1199)53歳て亡くなりました。この辺一帯は。頼朝屋敷跡、大蔵幕府跡でもあります。
源頼朝の墓 源頼朝の墓 
源頼朝の墓 源頼朝の墓 

源頼朝は義朝の嫡子で、平治の乱の後伊豆韮山に流されていた、治承四年(一一ハO)北条時政の応援を得て、平氏追討の兵を拳けたが、石橋山の合戦に敗れ海路安房にのがれた。しかし関東各他の家人の支持を得て鎌倉に入り、寿永三年(一一八五)平氏一門を滅亡し、ついで奥州の藤原氏を滅ぼして、全国を平定するにいたった。
 頼朝は源氏の御家人武士を統制するため侍所、ついで公文所などをおき、幕府の組織をととのえ、右近衛大将となり、さらに征夷大将軍に任ぜられて、幕府を開いた。正治元年(一一九九)五十三オで亡くなった。墓の下方の平地は当時の幕府跡である。
鶴岡八幡宮 源氏池 鶴岡八幡宮 源氏池 

東鳥居に戻り、左手に源氏池がある。表参道を挟んで東側にあり、西側に平家池がある。
鶴岡八幡宮 大鳥居(三の鳥居) 鶴岡八幡宮 大鳥居(三の鳥居) 
鶴岡八幡宮 段葛 鶴岡八幡宮 段葛 

鎌倉駅前の二の鳥居から鶴岡八幡宮まで、若宮大路の中央に設けられており、段葛と言われる。
寿永元年(1182年)、源頼朝の妻政子の平産祈祷のため鶴岡社頭より由比海浜大鳥居に亘り、これを築いた。その土石は北条時政始め源家の諸将が行った。明治の初年に至り、二の鳥居以南はその形を失った。
鶴岡八幡宮 二の鳥居 鶴岡八幡宮 二の鳥居 

鎌倉駅前近くにあり、ここから段葛が始まる。
若宮大路を南進 若宮大路を南進 
藤沢行き 江ノ電 藤沢行き 江ノ電 
鶴岡八幡宮 一の鳥居 鶴岡八幡宮 一の鳥居 

由比ヶ浜手前にあり、寛文8年(1668年)に4代将軍徳川家綱が備前の花崗岩で修復した。
鶴岡八幡宮 一の鳥居 鶴岡八幡宮 一の鳥居 
右折して江ノ島へ 右折して江ノ島へ 

左折すると逗子に向う。
由比ヶ浜と稲村ヶ崎 由比ヶ浜と稲村ヶ崎 
由比ヶ浜風景 由比ヶ浜風景 

写真では見難いが、黒いスーツを着た多くのサーファーがサーフィンを楽しんでいた。

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