万歩計 トップ 首都圏の鉄道 目次 南北線H2410 目次 目黒駅〜永田町駅〜飯田橋駅 目次  四ッ谷駅〜市ケ谷駅〜飯田橋駅 目次   溜池山王駅〜工事中の参議院議員会館〜永田町駅 紀尾井坂〜ソフィア通り〜四ッ谷駅  ページ ラスト 


万歩計



(Since H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)


赤坂見附交差点〜紀尾井町通り〜清水谷公園

【関連サイト】   南北線H2008


 直前のページに戻ります。

写真の一覧表へ 

青山通り(国道246号) 参議院議長公邸 青山通り(国道246号) 参議院議長公邸 
青山通り(国道246号) 衆議院議長公邸 青山通り(国道246号) 衆議院議長公邸 
青山通り(国道246号) 富士見坂 東京女学館発祥の地碑 青山通り(国道246号) 富士見坂 東京女学館発祥の地碑 

赤坂見附に向かう富士見坂の衆議院議長公邸の石垣に飾られている。東京女学館は現在は広尾の日赤病院前にある。

東京女学館、明治二十年この地(旧松平出羽守邸、俗に雲州屋敷、のち閑院宮邸)を皇室より貸与され、翌二十一年開校した。その後、麹町三年町(旧工部大学校)に移り、「虎ノ門女学館」と称せられた。大正十二年関東大震災のため焼失したので渋谷御料地に移り女子の一貫教育の場として今日に至っている。
ここに、往古を偲び、将来の弥栄を祈り、創立百周年を記念して碑を掲げる。
青山通り(国道246号) 富士見坂を下る 青山通り(国道246号) 富士見坂を下る 

首都高4号新宿線の高架の後ろに都道府県会館が見える。

富士見坂

 永田町二丁目、衆参議院議長公邸の北側を赤坂見附の方に下る坂です。 『江戸鹿子』には「赤坂松平出羽守の屋舗の前なり、空はれたる折は、遥かに富士山見ゆ、よってしかいふ。」とあります。
青山通り(国道246号) 赤坂見附交差点で右折、弁慶橋へ 青山通り(国道246号) 赤坂見附交差点で右折、弁慶橋へ 

南北線の四ツ谷までのコースは丸ノ内線と同じであり、弁慶橋から紀尾井町の清水谷、紀尾井坂、ソフィア通りを経て四ッ谷駅に向かうこととした。
赤坂見附交差点 弁慶堀に架かる弁慶橋 赤坂見附交差点 弁慶堀に架かる弁慶橋 
紀尾井町通り 弁慶橋 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 紀尾井町通り 弁慶橋 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 

旧赤坂プリンスホテル手前の弁慶濠脇にある。

かつてあったグランドプリンスホテル赤坂が再開発で解体中であり、小の碑を外して工事用フェンスで覆われている。
紀尾井町通り 弁慶橋 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 紀尾井町通り 弁慶橋 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 
紀尾井町通り 弁慶橋 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 紀尾井町通り 弁慶橋 紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 

 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸かありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は、慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩 主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています,、石高はほぼ55万5000石でした。明治5年、、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町という町名になりました。
紀尾井町通り 弁慶橋 紀尾井町通り 弁慶橋 

 この橋を弁慶橋といいます・橋が架かっている弁慶堀とともに、「江戸城外堀跡」として文化財指定されています。
 ところで、ここには江戸時代は橋は架かっておらず、]人々は堀沿いに東に進んで赤坂門を出なければなりますんでした。     ここに、橋が架けられたのは明治二十二年(一八八九)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治十八年(一八八五)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。
 和風の美しい橋の姿は、春の桜・冬の雪景色を背景として明治以来東京の名所として親しまれ、絵葉書や写真・絵画の題材となっていました。
 現在の橋は、昭和六十年十二月に改築されたもので、全長四一.○六メートル、幅二二メートルです・架け替え前の弁慶橋には、親柱にそれぞれ擬宝珠がありました。筋違橋・日本橋・一ッ橋・神田橋・浅草橋の古い擬宝珠を集めて被せてあったといいます。現在は、それら古い擬宝珠は用いられていません。
紀尾井町通り ホテルニューオオタニ ガーデンタワー 紀尾井町通り ホテルニューオオタニ ガーデンタワー 
紀尾井町通り 再開発で解体中の旧赤坂プリンスホテル 紀尾井町通り 再開発で解体中の旧赤坂プリンスホテル 

紀尾井町通りの向かいにはホテル ニューオオタニのガーデンタワーがある。
紀尾井町通り ホテルニューオオタニ 紀尾井町通り ホテルニューオオタニ 
紀尾井町通り 清水谷公園 紀尾井町通り 清水谷公園 
紀尾井町通り 清水谷公園 案内図 紀尾井町通り 清水谷公園 案内図 

清水谷公園の由来

 清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあリ、ごの境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。
 清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利道遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年5月、都市計画決定し、明治23年3月に開園しました。
 開園された当時は、’自然の地形を残した背景と、藤、松、楓などの 四季折々の風情があり、花見の時期は賑わったようです。現在の公園も緑豊かな木々があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。 園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水石桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。
 自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。
紀尾井町通り 清水谷公園 案内図 紀尾井町通り 清水谷公園 案内図 
紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 

 明治一一年(一八七八)五月一四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三、金井之恭、奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治二一年(一八八八)五月、「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
 「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると六.二七メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 紀尾井町通り 清水谷公園 贈右大臣大久保公哀悼碑 
紀尾井町通り 清水谷公園 熱中症計は警戒 紀尾井町通り 清水谷公園 熱中症計は警戒 

現在時刻は12:05で、熱中症計は危険、温度30.9℃、湿度46%である。

湿度は比較的低いが、汗が吹き出して蒸しはしないが暑さを感じる。
紀尾井町通り 清水谷公園 紀尾井町通り 清水谷公園 
紀尾井町通り 清水谷公園 紀尾井町通り 清水谷公園 

 紀尾井町を南北に貫いているこの公園前の通りは、中でも、公園を出て右に上った交差点の辺りは「清水谷」と呼ばれてきました。尾張屋板江戸切絵図にも「シミズタニ」と記されています。 
 それは、周囲から清水が湧き出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。
 この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しましました。
紀尾井町通り 清水谷公園 復原された湧水 紀尾井町通り 清水谷公園 復原された湧水 
紀尾井町通りを北上 紀尾井町通りを北上 
紀尾井町通り 突き当りを左折、紀尾井坂へ 紀尾井町通り 突き当りを左折、紀尾井坂へ 



 
万歩計 トップ 首都圏の鉄道 目次 南北線H2410 目次 目黒駅〜永田町駅〜飯田橋駅 目次  四ッ谷駅〜市ケ谷駅〜飯田橋駅 目次   溜池山王駅〜工事中の参議院議員会館〜永田町駅 紀尾井坂〜ソフィア通り〜四ッ谷駅  ページ トップ