江戸川橋〜市ヶ谷〜永田町
【関連サイト】 | 東京メトロ(旧営団) 有楽町線(平成15年) | |
目白通り 国産飛行機発祥の地 明治四十二〜四十三年(一九〇九〜一九一〇)にかけて日野熊蔵大尉により最初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(のち日本醸造機械株式会社)跡地である。 明治時代末期、飛行機が欧米各国で長足の進歩を遂げているのを見て日野大尉はその将来性に着目し、全くの独力で英・米・独・仏の文献を参考に飛行機用発動機、および飛行機の設計と製作に着手し、明治四十三年二月この地で完成した。 一層式で翼長八メートル、全長三メートル、発動機は二衝程空冷式八馬力を搭載し、完成まで三ヶ月の期間と約千九百円を費やした。大尉はこの飛行機に自ら搭乗して戸山ヶ原で試験飛行を実施した。 |
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目白通り 飯田橋 トッパンホール 高架は首都高池袋線で、車で走ると飯田橋インターを過ぎると特徴のあるホールが見える。 |
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目白通り 飯田橋交差点で右折、外堀通りへ 複雑な5差路で、左右を外堀通りが走り、目白通りが直進するが、斜め右から大久保通りが合流する。有楽町線はこの交差点で右折して外堀通りを進み、東西線は目白通りの写真奥方向からこの交差点に入り、大久保通りを進む。 |
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外堀通り 飯田橋交差点界隈 手前がラムラで、後方は神楽坂下交差点近くの飯田橋セントラルプラザである。外堀道路沿いの下に有楽町線と南北線の飯田橋駅が造られている。 |
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外堀通り 牛込揚場の碑 江戸時代には海がここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。 |
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東京メトロ(旧営団) 有楽町線 飯田橋駅 神楽坂下交差点の飯田橋駅出入り口で、後方は飯田橋セントラルプラザである。 |
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外堀通り 桜並木 4月初めには満開の桜並木が続き、散策する人が多い。 |
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外堀通り 市ヶ谷橋の釣り堀 市ヶ谷橋の風物詩としていつから始められたものかは知らないが、子供時代から見慣れた風景なので少なくとも半世紀は経っている。 |
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靖国通り 市ヶ谷橋 市谷見附交差点で左折、市ヶ谷橋を渡る。橋の左下に釣り堀がある。上り切った所の右手にJR市ヶ谷駅がある。 |
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靖国通り 市ヶ谷駅交差点で右折、日本テレビ通りへ 交差点で靖国通りは左折して靖国神社に向かう。 |
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東京メトロ(旧営団) 有楽町線 市ヶ谷駅 有楽町線の市ヶ谷駅は外濠の下を斜めに横切り、JR総武線の下にある。交差点の地下横断歩道から入って改札口に行くことになる。 |
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日本テレビ通り 新坂 市ヶ谷駅交差点から新坂を上り、麹町に向かう。坂を上り切った所が五番町交差点で、日本テレビ通りを進むと、四番町、二番町の案内板があり、番町小学校もある。 |
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日本テレビ通り | |
日本テレビ通り 四番町 | |
日本テレビ通り 四番町 江戸城に入った徳川家康は、城の守りを固めるため、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから「番町」という地名が生まれました。 江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並んでいました。安政五年(一八五八)の日米修好通商条約で、幕府側の代表のひとりであった井上信濃守清直もこの町の住人でした。清直は、初代の外国奉行であり、条約締結に尽力しました。 明治時代になると、中央政庁に近く便利な場所だったために、華族や官吏の邸宅地となりました。政治家の島田三郎や、首相を務めた若槻礼次郎の邸宅もありました。 また、町内には自由民権運動の指導者であった中江兆民が主宰した仏蘭西学舎(のちに仏学塾と改称)もあり、新時代を担う若者たちの活気で満ちあふれていました。 歌人の与謝野鉄幹、昌子夫妻も、明治四十四年(一九一一)から大正四年(一九一五)にかけて、このあたりに住んでいました。鉄幹が発行した雑誌「明星」からは、北原白秋や石川啄木ら数多くの詩人、歌人が輩出しています。 明治、大正、昭和、激しく揺れ動いた時代を鋭い視点で見つめた人々が、この四番町に集まっていたといえるでしょう。 |
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日本テレビ通り 日本テレビ麹町ビル | |
日本テレビ通り 日本テレビ麹町ビル 麹町ビルには麹町駅が接続されている。 |
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東京メトロ(旧営団) 有楽町線 麹町駅 | |
日本テレビ通り 二番町 日本テレビ麹町ビル南館前に設けられている。 江戸城に入った徳川家康は、城の守りを固めるために、隣接するこの一帯に「大番組」と呼ばれる警備役の旗本達を住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいましたが、明治時代になると伯爵や子爵、官吏の邸宅が並ぶ高級住宅地となりました。 現在の二番町周辺は、明治五年(一八七二)から昭和十三年(一九三八)まで「下二番町」と呼ばれていました。いまは、幅こそ広くなったものの、通りの位置や方向は大きく変わらず、落ち着いた町並みからも往時が偲ぱれます。 明治・大正期の外交官であり、のちに首相となって政党政治を確立させた加藤高明の邸宅は、現在のベルギー大使館の地にありました。 「花物語」「徳川の夫人たち」などの大衆小説で有名な吉屋信子や、プロレタリア文学の武田麟太郎も、この町に住んでいました。 ここ二番町では日本テレビの存在も忘れることはできません。昭和二十七年(一九五二)にこの場所に開局した日本テレビは、当時、海抜一八四メートルのテレビ塔をもち、その展望台からは皇居や国会議事堂を望むことができました。 明治、大正、昭和と多くの文化人を生み出した二番町は、これからも文化の発信基地の役割を担っていくことでしょう。 |
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日本テレビ通り 日本テレビ麹町ビル 日本テレビは今は汐留に移ったが、以前はこの場所にあり、麹町ビル南館前でズームイン朝などが放送されていた。今は閑散としている。 |
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日本テレビ通り 善国寺坂 新宿通りに向かって坂を下った所が善国寺谷で、そこからの上り坂が善国寺坂である。 |
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日本テレビ通り 善国寺坂 日本テレビ通りが新宿通りに出る所にある。 この坂を善国寺坂と言います。「新撰東京名所図会」には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく」鎮護山善国寺は標識の場所から見ると、右斜め前の辺りにありましたが、寛政一〇年(一七九八)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。坂下のあたりは善国寺谷、また鈴降(振)谷と呼ばれたといいます。 |
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日本テレビ通り 麹町四丁目交差点で左折、新宿通りに出る 新宿通りのこの一帯を麹町大通りともいう。新宿通りを少し左に進んで渡り、プリンス通りに向かう。 |
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プリンス通り 青山通り近くにある赤坂プリンスホテルに因んでいる。 |
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プリンス通り 文藝春秋本社 昨年(平成19年)に創立85周年を迎えた出版社で、作家菊池寛が創業者である。 |
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プリンス通り 明薬発祥之地碑 手書きの上に文字がかすれて読みにくく分かりにくいが、明治35年に創立されたことなどが書かれている。 |
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プリンス通り 明治薬科大学 剛堂会館 | |
プリンス通り 赤坂プリンスホテル 独特の形をした洋館は、「プリンス」の由来にもなった日韓併合以前の旧朝鮮王朝の李王家邸で、旧館である。後方に聳え立つのが新館である。 |
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プリンス通り 赤坂プリンスホテル | |
プリンス通り 左折して青山通りへ 首都高の高架の向こうには衆議院議長公邸がある。 |
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青山通り 平河町交差点 平河町交差点の手前の標識であるが、霞が関にも246号の表示がある。246号は直進して三宅坂で内堀通りと合流するはずだが、と思ってよく見ると後で追加されたような跡がある。 |
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青山通り 1900年 黒田清輝ここに住む 都道府県会館の外壁に掲示されている。 重要文化財の「湖畔」や「智・感・情」なとの作品を描いた明治・大正期の洋画家。この年、これらの絵画をパリ万博に出品し、銀賞を受賞した。 |
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青山通り 平河町交差点で右折 交差点手前の道路標識には写真奥に向かう道が246号となっている。渡ってすぐに自由民主党本部があり、この道路沿いに有楽町線の永田町駅がある。 |
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東京メトロ(旧営団) 有楽町線 永田町駅 |