汐留シオサイト〜旧新橋停車場〜東銀座

【関連サイト】 都営地下鉄 浅草線(平成14年)
東京の新名所 汐留シオサイト


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地下連絡通路で汐留シオサイトに向う  地下連絡通路で汐留シオサイトに向う  

東側に進むと都営大江戸線の汐留駅に出る。 
汐留シオサイト 日本テレビ 汐留シオサイト 日本テレビ 

立地的には新橋駅の目の前で汐留シオサイトの中にあるのに、お台場のフジテレビに比べ人出、人気度に劣る。
汐留シオサイト 日本テレビ 汐留シオサイト 日本テレビ 

クリスマス用の飾り付け作業が進められている。
汐留シオサイト 汐留シティセンター 汐留シオサイト 汐留シティセンター 

ゆりかもめの高架の北側にあり、日本テレビはその反対の南側にある。
汐留シオサイト 案内図 汐留シオサイト 案内図 

中央赤い線はゆりかもめで、その右の濃緑色のブロックが汐留シティセンター、ピンクが旧新橋停車場である。
汐留シオサイト 旧新橋停車場 汐留シオサイト 旧新橋停車場 
汐留シオサイト 旧新橋停車場 汐留シオサイト 旧新橋停車場 

0哩標識

1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33年)10月14日、旧国鉄によって『0哩標識』は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、旧「新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に指定されまLた。
汐留シオサイト 旧新橋停車場 汐留シオサイト 旧新橋停車場 

創業時の線路

創業当時.枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。
この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきまLた。
汐留シオサイト 旧新橋停車場 汐留シオサイト 旧新橋停車場 

この建物は1872(明治5)年10月11日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は、アメリカ人R.P.プリジェンスの設計により、1871(明治4)年5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向って、偉容を誇っていました。
汐留シオサイト 旧新橋停車場 汐留シオサイト 旧新橋停車場 
新橋交差点を横断、昭和通り(外堀通り)へ 新橋交差点を横断、昭和通り(外堀通り)へ 

新橋交差点から見たゆりかもめ新橋駅である。
新橋交差点では第一京浜が中央通りと改称し、銀座の中心街を走り、虎ノ門から来る外堀通りは昭和通りとなる。
汐留シオサイト 旧新橋停車場 汐留シオサイト 旧新橋停車場 
昭和通り 手水鉢の史跡 昭和通り 手水鉢の史跡 

御門通りが昭和通りに出る歩道橋の下にある。
昭和通り 手水鉢の史跡 昭和通り 手水鉢の史跡 

龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠の参道から出土した手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・○月吉○」など、当時の屋敷内が偲ばれます。
昭和通り 銀座7丁目東交差点の銀杏はまだ青い 昭和通り 銀座7丁目東交差点の銀杏はまだ青い 

手水鉢のすぐ先にある交差点で、晩秋の今日(11月24日)でも銀杏は青く、所々が黄葉している。
昭和通り 三原橋交差点で晴海通りを渡る 昭和通り 三原橋交差点で晴海通りを渡る 

東銀座駅はこの交差点にあリ、歌舞伎座は晴海側にある。
三原橋交差点 歌舞伎座 三原橋交差点 歌舞伎座 

外人観光客の団体が歌舞伎座の説明を受けていた。
都営 浅草線 東銀座駅 都営 浅草線 東銀座駅 

歌舞伎座前の出入り口だが、観光客が歌舞伎座の前に溢れていて通行の邪魔になっていた。後方は三原橋交差点である。
三原橋交差点 歌舞伎座 三原橋交差点 歌舞伎座 

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