旧中山道 板橋宿〜板橋区役所前〜板橋本町
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旧街道 中山道 散策 | ||
板橋三丁目交差点 旧中山道 板橋宿入口 交差点の右手にある。 中山道は東山道と呼ばれ、古くから西国と東国を結ぶ要路として利用されてきた。慶長7年(1602年)、江戸幕府によって五街道の一つとして整備されたが、板橋は日本橋から第一の宿として、街道沿いにその長さが約2kmに及ぶほど栄えていた。 旧中山道関係はこの板橋宿以外にも、志村1丁目の一里塚がある。 |
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板橋三丁目交差点 旧中山道 板橋宿入口 日本橋から北へ、中山道第一番目の宿場。中山道を京方面から下ってきた人や荷物はここから江戸市中に、又ここから中山道へ旅立っていった。宿場は南から平尾宿、中宿、上宿で構成され、本陣は一軒、脇本陣三軒、五十四軒の旅篭屋があった。 この切絵は明治十六年に建造された旧板橋警察署で、昭和八年に新中山道が開通するまで中山道と川越街道の分岐点となっていた。 |
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板橋三丁目交差点 旧中山道 板橋宿入口 | |
旧中山道 板橋宿(平尾宿) | |
旧中山道 板橋宿(平尾宿) | |
旧中山道 板橋宿(平尾宿) | |
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺と寛文の庚申塔 | |
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺と寛文の庚申塔 | |
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺と寛文の庚申塔 当寺は、真言宗豊山脈の寺で、如意山東明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(一三三八)と伝えられていますが、不明です。『新編武蔵風土記稿』には、延宝五年(一六七七)十月に入寂した慶浄が中興関山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。 明治六年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、このお不動様に由来します。 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀つられていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。 また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(一六六一)八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和五八年度に板橋区の指定有形文化財になりました。 |
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旧中山道 板橋宿(平尾宿) | |
旧中山道 仲宿交差点 王子新道と交差し、左折して白山通りに出ると三田線の板橋区役所前駅に着く。 |
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都営 三田線 板橋区役所前駅 | |
王子新道を戻り、仲宿交差点で左折、旧中山道へ | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) 遍照寺 | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) 遍照寺 普通の民家で、その訳は次の由来で分る。 |
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旧中山道 板橋宿(仲宿) 遍照寺 江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治四年廃寺となった。その後明治十四年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和二十二年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。 境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝連用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政十年(一七九八)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。 |
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旧中山道 板橋宿(仲宿) | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) 板橋 この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2q)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(6.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(一七九八)と天保年聞の二度修復が行われたことが分かっています。 |
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旧中山道 板橋宿(仲宿) 板橋 | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) 板橋 | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) 板橋 | |
旧中山道 板橋宿(仲宿) 板橋 石神井川の桜並木 5年前に三田線沿線を歩いた時は、満開の桜並木が見事であった。 |
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旧中山道 板橋宿(上宿) | |
旧中山道 板橋宿(上宿) 江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。 板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは十五町四十九間(約一.七km)でした。天保十四年(一八四三)には人□二四四八人、家数五七 七三軒、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状七号線あたりまでが上宿でした。 平成十四年(二〇〇二)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長七年(一六〇二)から四〇〇年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。 |
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旧中山道 板橋宿(上宿) | |
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました・その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。 板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(一八六一)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約一キロメートルの道のりでした。 なお、この時に榎を菰で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを菰で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。 |
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旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 | |
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 縁切榎前交差点で左折、白山通りに戻る。 |
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白山通りに戻る。 白山通りに出ると、環七の高架の手前に駅が見える。 |
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都営 三田線 板橋本町駅 |