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江戸桜通り 塩河岸
かつて、この付近には、江戸初期に川を埋めてつくった堀の西堀留川がありました。この堀は、江戸橋から北に入り、この通りの東側で船入堀が西へと曲がっていました。カギ状に曲がったその先には、道場橋と雲母橋が架かり、その橋の間にあった北岸を塩河岸と呼びました。江戸時代、ここに塩問屋があったことから、そう呼ばれるようになったといいます。
『江戸名所図会』には、「伊勢町河岸通 米河岸 塩河岸」と題された挿絵が掲載され、往時の様子を知ることができます。明治十年には、東京府によって対面南岸が「南塩河岸」、北岸を「北塩河岸」と定められました。 |
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江戸桜通り 本町二丁目交差点で昭和通りを渡る
江戸桜通りはこの交差点までの名前で、高架は首都高1号上野線である。 |
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中央区 江戸バス(北循環) #12 日本橋保健センター
斜め向かいに日本橋保健センターがある。 |
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日本橋保健センター |
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椙森神社
椙森神社は人形町通りの堀留町交差点手前にあり、富くじで有名であるが、日本橋の風物詩であるべったら市では門前の道路いっぱいにべったら漬を売る屋台が立ち並ぶ。 |
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椙森神社
椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。 |
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椙森神社 |
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堀留町交差点で左折、人形町通りへ |
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中央区 江戸バス(北循環) #13 堀留町一丁目
バス停は堀留町交差点を左折してすぐの所にある。 |
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人形町通りを北上 |
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人形町通り 小伝馬町交差点で右折、江戸通りへ
交差点を渡ってすぐ左手に伝馬町牢屋敷の遺構がある。交差点を左折してすぐの所には伝馬町の三大遺構(石町の時の鐘、伝馬町の牢屋敷跡、吉田松陰終焉の地)の碑がある。 |
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中央区 江戸バス(北循環) #14 小伝馬町駅
小伝馬町交差点を右折し、江戸通りに入ってすぐの所にある。 |
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江戸通り 鞍掛橋交差点 |
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江戸通り 馬喰町交差点で右折、清洲橋通りへ |
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清洲橋通り 馬喰横山繊維問屋街の小道が続く |
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清洲橋通り 馬喰横山繊維問屋街の小道が続く |
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中央区 江戸バス(北循環) #15 馬喰横山駅 |
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清洲橋通り 東日本橋交差点
左から浅草橋交差点から来る清杉通りと合流する。 |
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清洲橋通り 東日本橋二丁目陸橋
東日本橋交差点からすこし南下した所にある陸橋であるが、神田明神の巡幸祭では陸橋から鳳輦を眺める絶好の場所となる。しかし、毎回氏子が歩道橋に上り、「神様を跨ぐな、無礼者」と叱責して下ろしている。他の歩道橋では無視しているが、この町会は厳しい。 |
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中央区 江戸バス(北循環) #16 浜町一丁目 |