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桜田通り 三田二丁目交差点
桜田通りはこの交差点で右折する、 |
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桜田通り 三田二丁目交差点 慶応大学 三田キャンパス
蔦で覆われた障壁の先に正門がある。子供の頃、祖父や祖母につれられてこの障壁の下を通った時には「聳え立つ」という感じがした。大人になって通るとそれほど高くもない。 |
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桜田通り 三田3丁目交差点で右折 |
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三差路で左折、聖坂へ
三田3丁目交差点からすぐの交差点である。 |
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ちぃばす(高輪ルート) #152 バス停 三田三丁目 |
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聖坂 阿含宗関東別院 |
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聖坂 クウェート大使館 |
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聖坂 亀塚公園 界隈案内図 |
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聖坂 亀塚公園 |
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亀塚公園 案内図
現在地は上辺右端で、右下に亀塚古墳がある。 |
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亀塚公園 亀塚
古くから坪井正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行なわれず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和四五・四六年、港区教育委員会が主体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成一四・一七・一八年に、港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。
しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。
また、平安時代に書かれた「更級日記」に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(一四六九〜八七)には、太田道灌が斥候(ものみ)を置いたと伝えられています。
江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼煕が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。 |
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亀塚公園 亀塚 |
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亀塚公園 公園付近沿革案内
亀塚公園は緑色の一画で、茶色は寺社(ほとんどが寺地)である。一帯がいわゆる寺町であることがよく分かる。 |
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亀塚公園 公園付近沿革案内
この公園付近は、江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となった。
ここは三田台から高輪、ハツ山に及ぶ一連の丘陵地の東端で、邸内には老木、大樹が茂り、遥かに房総の山々を一望のもとに見晴らす勝地であった。西側の道路は古奥州街道にあたり、江戸開府前の主要道路であった。この地は、平安時代、菅原孝標の女が著した「更級日記」に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。塚は古墳とみられるが、人工の築山であることのほか、その証拠はえられてない。華頂宮が廃家となり、一時内大臣官邸となったが、昭和8年建物はこわされ、さらに昭和20年戦災をうけ、昔の趣きを失った。
昭和27年11月3日港区立公園として開園した。 |
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聖坂 三田めぐり散歩
三田坂めぐり散歩は、赤羽橋から伊皿子坂までの坂また坂の約2.3Kmのみちのりです。綱の手引坂、綱坂、聖坂などそれぞれの歴史と景観をもった坂と落ち着いたたたずまいを見せる洋館、点在する寺院や遺跡をめぐる散歩道です。
坂と洋館
三田一帯は、多くの坂に縁どられた高台の上にあり、江戸時代には武家地・寺社地となっていた。見はらしが良く静かなこのあたりは、また江戸市民の行楽地としても知られ、ことに聖坂から伊皿子あたりにかけては”月の岬”と称される月見所として名を馳せた。
維新後、武士にかわって華族や政府高官たちがここに住み、また、諸外国の公使館や学校が集まった。慶應義塾三田演説館や三井倶楽部、旧八須賀邸など、数々の洋館が建てられ、この界わいの特徴となった。 |
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聖坂 三田めぐり散歩 |
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ちぃばす(高輪ルート) #153 バス停 三田四丁目
亀塚公園の塀沿いにある。 |
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ちぃばす(高輪ルート) #153 バス停 三田四丁目 |
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聖坂 三田台公園 |
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聖坂 三田台公園 |
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聖坂 三田台公園 旧町名由来
三田
三田は区内で最も古い地名の一つで、古くは、文献に「武蔵国荏原郡御田」とあります。『御田』というのは諸国に多い地名で、神領の呼び名であるとも伝えられています。後に『三田』の文字が使われるようになりました。
三田丘陵を縦断して古代の奥州路、中世には鎌倉街道と呼ばれる街道が南北にはしり、今の第一京浜国道の東側は海でした。
江戸時代、このあたりは月見の名所であったことから「月の岬」と呼ばれ、風光明媚な場所として知られていました。 |
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ちぃばす(高輪ルート) #154 バス停 高輪一丁目
すこし先に伊皿子交差点が見える。 |
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ちぃばす(高輪ルート) #154 バス停 高輪一丁目 |
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聖坂 伊皿子交差点で右折、魚籃坂へ |