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神田〜湯島聖堂(旧 昌平黌)〜御茶ノ水

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中央通り 神田駅北口交差点で神田警察通りを渡る 中央通り 神田駅北口交差点で神田警察通りを渡る 
中央通り 須田町交差点 神田須田町一丁目案内 中央通り 須田町交差点 神田須田町一丁目案内 

交差点手前に神田明神の天下祭で氏子が着る印半纏を摸した道案内が立っている。神田須田町一丁目以外にも幾つか見ることができる。
中央通り 須田町交差点 神田須田町一丁目案内 中央通り 須田町交差点 神田須田町一丁目案内 

 江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596〜1615)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されようで、明暦三年(1657)の「新添江戸之図」には「すた町」と記されいます。
 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲をしていたようです。また、文政七年(1824)の「江戸買物独案内」を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が多く営業しています。
 さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。
つまりこの周辺は、江戸期以来の商いの町としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。
中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 
中央通り 神田川に架かる万世橋を渡る 中央通り 神田川に架かる万世橋を渡る 
中央通り 万世橋交差点で左折、国道17号へ 中央通り 万世橋交差点で左折、国道17号へ 

交差点から先は国道17号から分岐して中央通りとなり、秋葉原電気街を通る。
国道17号 千代田区コミュニティバス 風車 万世橋バス停 国道17号 千代田区コミュニティバス 風車 万世橋バス停 

時刻表を見ると1時間に1本であり、他の区や市では3〜4本なのに比べ、利便性は良くない。
国道17号 昌平橋交差点を渡り、外堀通りへ 国道17号 昌平橋交差点を渡り、外堀通りへ 

国道17号はこの交差点で右折し、神田明神に向かう。左から来る外堀通りは左折(写真では直進方向)して湯島聖堂(旧 昌平黌)に向かう。
外堀通り 湯島聖堂(旧 昌平黌) 外堀通り 湯島聖堂(旧 昌平黌) 

湯島聖堂は次ページにまとめた。

寛永九年(一六三二)、尾張藩主徳川義直 林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回禄(火災)の災に罹るや、元禄三年(一六九〇)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と称せり。後、寛政十一年(一七九九)大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、旧に復せり。
 建造物は暫く東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年(一九三五)四月四日鐡筋混凝立構造に依りて原型に復せり。
聖橋から見た湯島聖堂(旧 昌平黌) 聖橋から見た湯島聖堂(旧 昌平黌) 

中央奥に本殿である大成殿の屋根が見える。
本郷通り 神田川に架かる聖橋を渡り南下 本郷通り 神田川に架かる聖橋を渡り南下 
本郷通り 聖橋交差点で右折、茗渓通りへ 本郷通り 聖橋交差点で右折、茗渓通りへ 
JR 中央線快速 御茶ノ水駅 聖橋口 JR 中央線快速 御茶ノ水駅 聖橋口 
茗渓通りを西進 茗渓通りを西進 
JR 中央線快速 御茶ノ水駅 御茶ノ水橋口 JR 中央線快速 御茶ノ水駅 御茶ノ水橋口 



 
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