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国分寺〜国立〜立川
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国分寺駅〜武蔵国分寺公園〜国分寺遺構
国分寺駅の南口から多喜窪通り(都道145号立川国分寺線)を南下、南町三丁目交差点を過ぎてすぐ下り坂となり、坂を上った所に補聴器のリオンがあって、その向かいが武蔵国分寺公園である。武蔵国分寺公園は、多喜窪通りで二分され、上(北側)は泉地区、下(南)は西元地区である。
公園案内図によれば、左下角に真姿の池、お鷹の道と書かれているが、肝心の国分寺が表記されていない。清掃係員に尋ねたところ、真姿の池に行けば良い、とのことだったので、西元・南東口に向かう。実は反対の南西に向かうべきだったが、前回の6年前は国分寺の遺跡関係は未整備だったので、国分寺といえば寺としての国分寺と思っていたが、地元の人からは史跡公園などを指すと考えていたらしい。この誤解は後でも繰り返された。
武蔵国分寺公園の西元・南東口から出て南下、突き当りの細道を下ると真姿の池湧水群で、真姿の池の名のいわれは、平安時代に玉造小町の病気が治ったことによる。右折し、尾張徳川家の御鷹場だったことから湧水の清流に沿う小径をお鷹の道と呼び、進むと武蔵国分寺跡資料館の長屋門があり、その前に史跡の駅がある。係員に国分寺に行く道順を聞いたところ、元町通りへ出ると史跡公園があるとのことだった。
しかし、本来の国分寺があった史跡公園は、至る所発掘中で立ち入り禁止とか、工事中で、何も無い。いわば広大な枯れ芝生の公園で、東南角にやっと七重塔跡だけがあった。そこでたまたま工事中の係員に現存する国分寺を見たい、と3度目の質問をしたら、全く反対方向に来ていることが分かった。現在地は南東の角で、国分寺は北西の角である。6年前と違い、史跡整備が進められ、国分寺といえば真姿の池湧水群、お鷹の道、整備中の史跡公園などを言うのである。
七重塔跡から武蔵国分寺跡資料館手前まで戻り、元町通りを西進し、道なりに右に曲がる角に現在の国分寺があり、その先に武蔵国分寺跡資料館、お鷹の道がある。国分寺前の楼門を見た後、角に戻り、北の階段を進むと国分寺仁王門で、階段を上り、薬師堂へ着く。
国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇の命により鎮護国家を祈願して創建された。当時の遺構は無いが、鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった分倍河原の合戦で国分寺を焼亡させた新田義貞が寄進した薬師堂が江戸時代に再利用され、仁王門になった。薬師堂から元町通りに出て、西進して坂を上り、国分寺四小入口交差点で左折、多喜窪通りへ戻る。
西国分寺〜国立〜立川
多喜窪通りの泉町交差点で右折、府中街道へ入り北上、武蔵野線との接続駅である西国分寺駅を見た後、府中街道を戻り、泉町交差点で右折、多喜窪通りへ進む。府中病院入口交差点、たまらん坂(多摩蘭坂)と過ぎて東二丁目交差点で道なりに右折、旭通りと名前が代わり、牧舎風の趣ある駅舎が改築でなくなった国立駅に着く。きれいに黄葉したイチョウや、紅葉した桜、もみじの並木が美しい大学通りを南下、一橋大学正門に寄った後、大学通りを北上し国立駅に戻る。
国立駅から富士見通りを南西に進み、国立市公民館の先の京たこ角で右折、国分寺から多喜窪通り、旭通りと言われてきた都道145号(立川国分寺線)へ入る。立川近くまで1車線の一方通行の道路を西進、国立市コミュニティバス「くにっこ」の音大附属小学校東バス停、児童遊園東バス停、立川市コミュニティバス「くるりんバス」の羽衣町二丁目北バス停と過ぎ、南武線の踏切を渡って錦町一丁目交差点で立川通りを渡る。立川駅南口のウインズ通り、いろは通りを西進、立川駅に至る。
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