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鎌倉街道を北上 |
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鎌倉街道 本宿交番前交差点で左折、甲州街道へ
右折して次の本宿町交差点で、旧甲州街道が甲州街道(国道20号)に合流する。
5年前に歩いた時は、分倍河原駅のすぐ北が旧甲州街道で、このルートを西進してきた。西府駅に寄るため、南側の旧鎌倉街道を歩いてきたことになる。 |
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甲州街道 熊野神社
本宿交番前交差点で左折してすぐにある神社である。熊野神社は各地区にあり、この神社は小さく、特に特徴もないが、本殿裏に古墳が見えたので立ち寄った。 |
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甲州街道 熊野神社
当神社は往古「熊野大権現」と称され旧本宿村の総鎮守であった。
その創建は江戸初期と伝えられ、当時境内に別当寺である弥勒寺が勧請されており当地にも熊野信仰伝播の様が見られ神仏習合信仰形態が調っていた。
本殿は往時の儘現存し拝殿は天保九年(一八三八)九月改築との棟札があり、拝殿内には江戸時代後期の漢詩人「江山翁大窪行」揮毫の「熊野大権現」と記した額が殿内にある。古墳裏正面には「天明八戊申歳九月吉祥日 当村氏子中願主 松本氏」と刻まれた鳥居があり、正北から境内を守護している。 |
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甲州街道 熊野神社
本殿横に古墳が見える。 |
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甲州街道 熊野神社 古墳 |
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甲州街道 熊野神社 古墳
いかにも復元しました、と言わんばかりの新しい古墳である。解説にも書かれているが、上円下方墳の珍しい形である。 |
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甲州街道 熊野神社 古墳 |
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甲州街道 熊野神社 古墳
■飛鳥時代の上円下方墳
本古墳は、7世紀の中頃の飛鳥時代に築造された、上が丸く、下が四角い上円下方墳です。古代の中国では、天はドームのような半球形で、大地は四角いものと信じられていました。このような考えを「天円地方」といいますが、このような宇宙観や思想を背景として築造されたと考えられています。
■方角
古墳の中心線は、真北より約7度西へ向いていますが、古墳の築造にあたって方角を意識していたものと考えられます。
■古墳の大きさ
墳丘の規模は、3段目の上円部の直径約16m、2段目の下方部の一辺約23m、1段目の下方部の一辺約32mを測ります。墳丘の高さは、3段目の墳頂で約6mあります。墳丘全体の中心は、石室の一番奥の部屋(玄室)の中心に合わせるように設計されていました。
■埋葬された人物
武蔵府中熊野神社古墳が、全国でも類例の少ない上円下方という墳形の古墳であることや、副葬品の質の高さから、その被葬者(埋葬された人物)はおそらく東国の有力者であったと考えられます。残念ながらその人物名は、当時の文献や記録、古墳出土品に名前を記したものがないためわかりません。 |
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甲州街道 南武線跨線橋の西府橋
西府橋の下を南武線は通り、甲州街道の北側を並行して西進する。 |
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甲州街道 国立インター入口交差点 |
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甲州街道 国立インター入口交差点
元々の甲州街道は直進する道路であるが、東京オリンピックの際、多摩川の砂利輸送のため2車線を4車線化して幅員が狭小になり、左折する日野バイパスが造られた。両方とも甲州街道と称する。
谷保天満宮前後の歩道は人一人通るのがやっとのほど狭く、日野バイパス完成後は2車線に戻すとの約束も交通量が多くて実現できていない。 |
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甲州街道 谷保天満宮前交差点
左に谷保天満宮があり、右折すると谷保駅である。 |
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甲州街道 谷保天満宮
昌泰四年菅公大宰府に遷らせ給う所、第三子道武朝臣この地に配流され給う。父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、天神島(現府中市本宿)に鎮座す。
養和元年十一月三日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に遷座す。天暦元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、関左第一の天満宮と称せられ、明治十八年府杜に列せられる。 |
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甲州街道 谷保天満宮 |
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甲州街道 谷保天満宮 |
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甲州街道 谷保天満宮
谷保天満宮は「醍醐天皇延喜三(九〇三)年二月、菅公筑紫に薨去された折、道武朝臣は思慕の情に堪えず、手づから父君の尊容を刻んで廟殿に鎮祀し、旦暮如在の礼を盡された。
延喜二十一(九二一)年十一月、道武朝臣が此地で逝去されるに及んで、神霊を相殿に配祀して三郎殿と称した」と伝えられている。(天満宮略縁記・谷保天満宮所蔵)
江戸時代には、朱印領十三石を寄せられ、明治十八(一八八五)年には「府社」となった。 |
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甲州街道 谷保天満宮 |
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甲州街道 谷保天満宮 |
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谷保天満宮前交差点で甲州街道を渡る |
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JR 南武線 谷保駅 |