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荒川線の線路沿いに西進 
普通の路面電車と違い、道路の真ん中が荒川線の専用軌道となっており、両脇を自動車が走る。そのため、自動車に邪魔されることなく走ることが出来る。 |
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都電荒川線 町屋二丁目駅  |
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都電荒川線 東尾久三丁目駅  |
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荒川線の線路沿いに西進 
線路沿いを歩いていると、所々で立派なサクラを植えている民家を見ることができる。 |
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熊野前交差点で尾久橋通りを渡る 
手前の白い高架は都営日暮里・舎人ライナーで、尾久橋通りの上を走り、高架の左には熊野前駅の駅舎がある。その奥の緑の高架は交差点を跨ぐ熊野前陸橋である。
写真では分かりにくいが、道路の緑の柱傍に荒川線の熊野前駅がある。 |
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都電荒川線 熊野前駅  |
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熊野前交差点で尾久橋通りを渡る  |
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荒川線の線路沿いに西進  |
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都電荒川線 宮ノ前駅 
いくつかの駅舎で駅名表示が取れたのか、駅名が分からない所がある。ホームに立てば、駅名表示板があるかもしれない。 |
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荒川線の線路沿い 尾久八幡神社  |
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荒川線の線路沿い 尾久八幡神社  |
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荒川線の線路沿い 尾久八幡神社 
八幡神社と上尾久村村絵図
所蔵の上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子を物語る。図中には、農業用水の流路、七名の領主名とふ領主付農民、村内の社寺などが記され、隣村の田端村や中里村との間で取り決められた用水に関する記述が三か所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(一八四八)以後のものであると推定される。このほか同社には、享保十四年(一七二九)銘の手水鉢や南北朝期の至徳二年(一三八五)銘をはじめとする棟礼等がある。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から中世には当地の鎮守として勧請されていたと考えられている。 |
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荒川線の線路沿い 尾久八幡神社 
八幡神社と八幡堀
八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(一三一二)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から、至徳二年(一三八五)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地雑誌『新編武蔵風土記稿』(文政十一年成立)には、上・下尾久、船方三村の鎮守と記されている。
八幡堀は、王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社をとり囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久三−四周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑い、神社の西側では下肥の積みおろしも行っていたという。 |
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荒川線の線路沿い 尾久八幡神社  |
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荒川線の線路沿い 尾久八幡神社 
八幡堀プロムナード
江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和六十年に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、これがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て、第四十回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。
荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。
東京都も、この都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合わせて、水路をイメージした歩道の整備を行いました。
この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。 |
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荒川線の線路沿い 尾久警察署  |
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都電荒川線 小台駅  |
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荒川線の線路沿い 小台交差点  |
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荒川線の線路沿い 西尾久六丁目交差点  |
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都電荒川線 荒川遊園地前駅  |
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荒川遊園地前駅前 荒川遊園通りのアーチ  |
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荒川遊園通り 荒川遊園通りのアーチ 周辺案内  |
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荒川遊園通りを北上  |
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荒川遊園通りを北上 
サクラの種類によるものか、日当たりは同じでもほとんど蕾だけの木もある。 |
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荒川遊園通りを北上  |
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荒川遊園通りを北上  |
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荒川遊園地 メインゲート 
荒川遊園は北の隅田川を発着する水上バスと組み合わせた荒川区立の遊園地である。入場料が高校生以上が200円、小中学生と65歳以上が100円である。 |
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荒川遊園地前 煉瓦工場と荒川遊園 
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦
工場があった。土が煉瓦の製造に適していたことと、船運が期待されてのことである。
旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦
工場、華蔵院(東尾久八丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場な
どである。なかでも古いのが、明治五年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。
その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正十一年に開園
した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。
太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和二十五年、区立荒川遊園として生まれ変わった。 |
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荒川遊園地前 遊園地案内  |