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県道27号(横須賀葉山線) 突き当たりの野比駅入口交差点で右折、尻こすり坂通り(国道134号)へ |
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尻こすり坂通り(国道134号) 野比交差点から北下浦海岸通り(国道134号)に改称 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸
北下浦海岸通り(国道134号)を歩いていると、急に視界が開けて長沢海岸の風景になる。 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 若山牧水歌碑
公園であるが、案内板などは見当たらない。
若山牧水の歌碑の裏面には喜志子夫人の詩が書かれているが、磨耗して読みにくい。
うち煙り、のこぎり山も、浮かび来と
今日のみちしほ、ふくらみ寄する |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 若山牧水歌碑
若山牧水の有名な詩である。
しら鳥は、かなしからずや、そらのあお
海の青にも、そまずただよふ
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 若山牧水歌碑 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 若山牧水歌碑
若山牧水は本名繁、明治十八年八月二十四日、宮崎県臼杵郡に生まれた。県立延岡中学校を卒業した後上京、早稲田大学に学び、明治四十五年太田喜志子と結婚した。大正二年長男旅人を出生したあと喜志子は体調が優れず、医師から転地療養を勧められ、大正四年三月に長沢の川端の家(斉藤松蔵方)に移り住んだ。
風光明媚、気候温暖な当地での静かな明け暮れのなかで、喜志子の健康は次第に回復し、大正五年十一月には長女みさきが生まれた。
右に建つ「しら鳥」の歌は明治四十年十二月の「新声」に発表されたものであるが、牧水はまだ二十三歳の学生歌人であった。
碑の背面に刻まれた「鋸山の歌」は、妻喜志子が当地に住んでいる頃「海辺に移りて」と題して発表したもので、表裏合わせて「夫婦歌碑」と呼ばれている所以である。昭和二十八年に建立された。 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 若山牧水歌碑
左にある「海越えて」の歌碑は、昭和六十二年に建立された。歌集「砂丘」のはじめに「三浦半島」と題して「病妻を伴い三浦半島に移住す、三月中旬の事なりき」と記したあとに発表した長沢海岸から房州鋸山を詠んだ歌である。
「漂白の歌人」と言われ、旅と酒を愛した牧水に、地域の人々との温かいふれあいもあって、喜志子の日常も順調にすすむようになり、大正五年十二月二十八日東京小石川に引揚げていった。 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 若山牧水歌碑
海越えて、鋸山は、かすめども
此処の長浜、浪立ちやまず |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 野比川に架かる長沢橋 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸 野比川に架かる長沢橋 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢海岸
金田湾の向かいに房総半島がぼんやりと見えるが、鋸山など細かい地形は分からない。 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 行政センター東交差点
この交差点から北下浦海岸通りに戻る。 |
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北下浦海岸通り(国道134号) 長沢駅入口交差点で右折
行政センター東交差点のすぐ先である。 |
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京急 久里浜線 京急長沢駅 |