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駒場野公園〜駒場通り〜駒場公園

【関連サイト】   京王 井の頭線(平成16年)
初秋の公園めぐり(恵比寿駅〜梅ヶ丘駅)(H17−09−18)


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駒場東大前駅先のガードをくぐる 駒場東大前駅先のガードをくぐる 

ガードの手前に駒場野公園への案内表示がなされている。ガードをくぐりすぐ左折、線路沿いに西進する。
踏切を渡り、駒場野公園へ 踏切を渡り、駒場野公園へ 
駒場野公園 駒場野公園 

南北が逆転している地図で、中央のブロックは東大、右角の赤四角が現在地でその周辺が駒場野公園である。

明治期に農業の近代化に貢献した駒場農学校の跡地に造成された公園。明治14年に同校に着任したドイツ人教師ケルネル氏が由来の「ケルネル田んぼ」では、今でも稲作が行なわれています。
駒場野公園 駒場の今昔 駒場野公園 駒場の今昔 

駒場一帯は台地で、かつては駒場野と呼ばれ、笹か一面に生い茂り、所々に松林などがある原野が広がっていました。
そのため古代から中世にかけて東国武士たちの軍馬の放牧地として利用されてきました。江戸時代になると、鳥や獣か数多く生息する駒場野一帯は、鷹狩り場となりました。
 将軍の鷹狩りのたびに、田畑は人馬で荒らされ、そのうえ地元の農民たちは場所ごしらえや道普請、鷹の餌の昆虫集めなどに駆り出されました。江戸末期には幕府の軍事訓練所が計画され、明治にはいると初めての陸軍観兵式がここ駒場野の原野で行われました。維新後日か浅かった当時、軍事教練のスタイルもイギリス式、フランス式、ドイツ式とばらばらであったものでした。
駒場野公園 駒場で花開いた近代農学 駒場野公園 駒場で花開いた近代農学 

ここ駒場は、日本近代農学発祥の地である。
明治11年、農学校が誕生。ドイツ農法に範を求めた駒場農学校は、優秀な農業技術者を次次と世に送り出した。
この学校の日本人教師で、後に「明治三老農の一人」といわれたのが船津伝次平。彼は自ら実習田作りに汗を流すなど、体当りで農業の近代化に努めた。
ドイツ人教師ケルネルも異色の存在。わが国で初めて化学肥料の使用を試みた彼は、実験水田で研究に取りくんだ。この水田は、「ケルネル田圃」として今も残る。駒場農学校はその後、大学農学部などに発展的解消。記念の駒場農学碑が東大教養学部構内にある。
駒場野公園 駒場野公園 
駒場野公園 駒場野公園 

 この公園は、東京教育大学(農学部)の跡地を利用して作られれした。面積は28haあります。
 園内にはスポーツ施設、プールの水を利用した流れ、原っぱ、ケルネル水田、果樹園、雑木林、池などがあります。野鳥や虫を楽しめる公園にしていくために、雑木林の一部と池がサンクチュアリーになっています。
駒場野公園 ケルネル田圃 駒場野公園 ケルネル田圃 

 ケルネル田圃は、旧駒場農学校の実習田です。
 駒場農学校は、明治政府が近代農学に基礎をおく欧米農法をとりいれるために、農業指導者を養成する学校として明治11年に設置されました。
 札幌農学校がアメリカ系統の農業技術を導入したのに対して、駒場農学校にはドイツ系統の農学がとりいれられました。
 ドイツ人のオスカー・ケルネルは、駒場農学校の教師として招かれ、日本農業の特質を配慮しながら農芸化学を応用した実験を中心に土壌、肥料などの研究と教育をおこない、多くの成果を収めました。
 ドイツ人教師ケルネルの名をつけたケルネル田圃は、新しい日本農業の指導者を育てた駒場農学校の実習地の跡として貴重な史跡です。
 なお、駒場農学校は、後に東京農林学校となり、東京帝国大学農科大学校等を経て筑波大学に継承されました。
 現在、ケルネル田圃では筑波大学付属駒場中学校、高等学校により教育水田として生徒が実習しています。
駒場野公園 ケルネル田圃 駒場野公園 ケルネル田圃 

ただの荒れ野のように見えるが、台風でなぎ倒されたかのようにも見える。奥には案山子が何体も立てられている。
駒場野公園 水田の碑 駒場野公園 水田の碑 
駒場野公園 水田の碑 駒場野公園 水田の碑 
駒場野公園 駒場野公園 
駒場野公園 駒場野公園 
駒場通り 踏切を渡り、突き当りを左折 駒場通り 踏切を渡り、突き当りを左折 
駒場通り 右折して北上 駒場通り 右折して北上 

駒場通りは、踏切を渡ってすぐにこの案内板のある角で右折する。
駒場通り ハロウイーンの飾り物 駒場通り ハロウイーンの飾り物 

ハロウィーンは、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われるが、最近あちこちでこのような飾り物が飾られるようになってきている。
駒場通り ハロウイーンの飾り物 駒場通り ハロウイーンの飾り物 

何かクリスマスの飾りのようにも見える。
駒場通り 上原二丁目交差点で左折、西進 駒場通り 上原二丁目交差点で左折、西進 

道路名は調べたが分からない。
二股路を左に進む 二股路を左に進む 
二股路付近の地図 二股路付近の地図 

赤矢印が現在地で、その先の緑のブロックがこれから行く駒場公園である。
駒場公園 駒場公園 

加賀百万石で名高い前田侯爵邸の庭園跡地で、森と広場の公園です。化粧レンガやタイル張りのほどこされた洋館は昭和4年、書院造の和館は昭和8年に完成したものです。
駒場公園 駒場公園 
駒場公園 自然と文学のオアシス 駒場公園 駒場公園 自然と文学のオアシス 駒場公園 

大木が繁り、野鳥が遊ぶ園内。静かなたたずまいは、都会のオアシスを思わせる。面積約4ha。
もとは加賀百万石。旧前田利為侯爵の邸宅であり、昭和の初めにつくられた洋風・和風二棟の屋敷と庭園は、昭和42年から公園として公開された。洋館は旧前田侯爵邸洋館、和館は休憩所として、そのまま利用されている。
駒場公園 駒場公園 
駒場公園 駒場公園 

木立の後ろに洋館がある。
駒場公園 旧前田侯爵邸洋館 駒場公園 旧前田侯爵邸洋館 

 旧加賀藩主の系譜をひく前田家の本邸として、昭和四年(一九二九)五月に竣工した建物である。設計者は東京帝国大学教授塚本靖であったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。 建物の規模は地上三階、地下一階。建築面積は一、一二九.四平方メートル。鉄筋コンクリート造で、外壁はスクラッチタイルを貼り、アクセントに大華石を用い、屋根は鋼板葺きである。
 前田侯爵邸は昭和ニ○年(一九四五)九月、連合軍に接収され、極東軍司令官の官舎として使われていたが、昭和四二年(一九六七)四月、東京都近代文学博物館に衣替えし一般に公開された。
 この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使している。内部の改造は少なく竣工時の雰囲気を良く留め、上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物である。
駒場公園 栄華の跡 旧前田侯爵邸洋館 駒場公園 栄華の跡 旧前田侯爵邸洋館 

英国邸宅風の洋館は、昭和4年に旧前田侯爵が新築。欧州で長く駐在武官を勤めた前田侯はここで外国の賓客をよく接待したが、17年に戦没。
駒場公園 旧前田侯爵邸洋館 駒場公園 旧前田侯爵邸洋館 
駒場公園 旧前田侯爵邸洋館 駒場公園 旧前田侯爵邸洋館 



 
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