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旧甲州街道 府中市役所前交差点 府中高札場
法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(一八七〇)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六箇所の大高札場をはじめ三十五箇所に高札場があったという。
府中の高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交叉する所、大国魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに六枚ぐらいの高札が掛けられていた。 |
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旧甲州街道 府中市役所前交差点 府中高札場 |
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旧甲州街道を西進 |
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旧甲州街道 番場宿
番場宿は、現在の宮西町二・四・五丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場は、もとの名を茂右衛門宿といいます。これは、この土地が名主茂右衛門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永十三年(一六三八)のことといわれています。 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺
平将門を打ち破った藤原秀郷の館跡、と伝えられる。足利尊氏が諸国に安国寺を作ったが、武蔵国の安国寺として古い寺を臨済宗の禅寺として再興した。その後、小田原北条氏の庇護を受けたが没落、慶長年間に曹洞宗禅寺として再興された。 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 本堂
額の等持院は足利尊氏の院号で、二引両紋は足利氏の紋である。ちなみに、ライバルの新田氏は一引両紋である。 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺
当山は往古田原藤太秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて安国利生の祈願所として龍門山高安護国禅寺を再建した。これは尊氏が全国(六十六ヶ国二島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。
当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹悟禅師であった。時に暦応年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も七十五院あり、寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、丸は山口に及んだという。
その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北條氏の庇護も受けたが、歴年の兵戦を経て衰えて大刹の姿も失っていった。
時に慶長年間青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が、当山を再興し、済派を改めて曹洞宗となり今日に至る。 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 観音堂
高安寺の観音堂は、もと寺の西、観音橋付近にありましたが、江戸初期の大水に流され、享保年間(一七一六〜一七三六)に現在地に再建されたと伝えられます。
この観音堂は、桁行三間・梁間三間の母屋造りで、多摩地区においては数少ない江戸中期の三間堂です。
また、垂木や組物そして格天井の彩色絵様など建築史的にみても十八世紀前半の特色を伝える貴重な堂宇です。 |
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旧甲州街道 足利尊氏所縁の高安寺 観音堂 |
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旧甲州街道 弁慶坂
『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架するの所の橋をも弁慶橋と号け、東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。
この坂は、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。これは、高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、大般若経を書写したと伝えられるものです。高安寺は往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵国の安国寺として再興した名刹です。この地は、武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています。 |
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旧甲州街道 片町二丁目交差点で左折 |
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南武線 分倍河原駅手前の踏切を渡る |
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分倍河原駅前風景
駅前に新田義貞の騎馬像がある。 |
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京王 京王線 分倍河原駅
分倍河原駅はJRと京王とが交差する駅で、正面に京王の改札口が、左にJRの改札口がある。京王線は高架で、南武線は下を走る。 |