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京王 京王線 分倍河原駅
【撮影記録】
平成21年 6月 2日 晴れ
09:50〜14:20 26,000歩(昼食 10分)(概算 20.8km)
京王線 分倍河原〜聖蹟桜ヶ丘〜高幡不動〜北野〜京王八王子
営業距離 14.8km 駅数 10
爽やかな初夏の天気で、始めは高幡不動までとしていたが、八王子まで歩いた。さすがに北野からあと一駅(営業距離1.8km)がきつかった。 |
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競馬場通り 府中市コミュニティバス ちゅうバス バス停 分倍河原駅
分倍河原駅前にバス停があり、府中、分倍河原、中河原を巡る。東京競馬場界隈とはバス停の色が違う。 |
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分倍河原駅前 新田義貞公之像
この像は、分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして創作したものである。
「分倍河原合戦」は、元弘三年(一三三三)五月一五日・一六日の両日に新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけ分倍河原で火花を散らした天下分け目の合戦である。この合戦で勝利をおさめた新田軍は一気に鎌倉に攻め落とし、遂に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである |
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分倍河原駅前 新田義貞公之像 |
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分倍河原駅 駅前風景
新田義貞公之像の裏手にJR南武線の分倍河原駅が見える。 |
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分倍河原駅 ショッピングセンター MINANOを通り抜け、旧鎌倉街道へ |
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ショッピングセンター MINANO沿いに旧鎌倉街道を西進 |
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旧鎌倉街道 京王線ガード下を西進 |
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旧鎌倉街道 分梅駐在所交差点で左折 |
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旧鎌倉街道 分梅駐在所交差点で左折
右手の小公園内に分梅についての案内石碑がある。 |
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旧鎌倉街道 分梅駐在所交差点
分梅(ぶばい)は、現在の分梅町一・二・三・四・五丁目の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分倍河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ、「ぶんばい」と呼ばれていたこともありますが、近世以降には「分梅」が多用されています。
地名の起こりは、不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説があります。 |
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旧鎌倉街道 分梅駐在所交差点 |
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旧鎌倉街道 分梅町二丁目交差点 中央高速の下を進む |
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旧鎌倉街道 分倍河原古戦場
分梅橋交差点の左手に分倍河原古戦場碑の案内がある。 |
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旧鎌倉街道 分倍河原古戦場
文永(一二七四)、弘安({二八この役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。 |
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旧鎌倉街道 分倍河原古戦場 |
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旧鎌倉街道 旧鎌倉街道散歩案内
分倍河原古戦場碑と、鎌倉街道と合流する中河原駅北交差点の中間にある。 |
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旧鎌倉街道 中河原駅北交差点で鎌倉街道に合流 |
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旧鎌倉街道 中河原駅北交差点で鎌倉街道に合流 |
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京王線 中河原駅 駅前風景
5年前には左のスーパーはなく、正面の駅舎も田舎風であったが、駅前も含めて一変していた。 |
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京王 京王線 中河原駅 |