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足立区道 竹ノ塚駅 大踏切
平成17年3月、開かずの踏切を渡る人への係員の気配りによる遮断機誤開で、2人死亡2人負傷の事故があった。そのため、踏切には係員が東西に1名ずつ立っている。 |
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足立区道 竹の塚一丁目交差点
行けども行けども目標とする交差点が出てこない。不審に思いながらも南東に進む。 |
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竹の塚一丁目交差点 小林−茶と炎天寺
炎天寺には江戸時代後期の俳人、小林一茶の“やせ蛙”を応援する心温まる話があります。
小林一茶は、長野県に生まれ、不遇な中で育ちました。そのためか、一茶の句には弱い者をいたわるものが数多くあります。彼は、俳諧の道で名をなそうと江戸へ出て来ましたが、なかなか思うようにならず江戸と郷里の間を数度に渡って往復していました。干住関屋の建部巣兆、竹塚忖の竹塚東子という文人連とも深い交わりを結んでいて足立にも何度か足を運んだようです。
当時の竹塚村は、水田地帯で初夏の田植えの時季になるとあちこちでカワズが鳴き合い“蛙合戦”で江戸中に知れわたっていました。竹塚村を訪れるたびにこうした光景に接した一茶は、やがてこの蛙合戦の模様を見て、
やせがえる 負けるな一茶 是にあり
という、句を詠んでいます。この句には、「武州竹塚というに蛙戦いありける見にまかる」という前書きが記されています。その他にも
蝉鳴くや六月村の炎天寺
むら雨や六月村の炎天寺
の句があります。
昭和37年に炎天寺境内に2メートルほどの“一茶句碑”が建てられ、以来11月23日に地元の有志によって“ー茶まつり”を行っています。その日には、付近の小中学生も多数参加してー茶に負けない名句を作っています。 |
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増田橋交差点で左折、旧日光街道(都道103号)へ
もう一度地図で確認したところ、竹ノ塚駅の大踏切を渡って左折し、東口ロータリーに出てそこからまっすぐ東進すべきだった。このまま行っても日光街道(国道4号)に出るが、この交差点は旧日光街道との交差点なので左折することにした。 |
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旧日光街道(都道103号) 竹の塚四丁目交差点で右折
右角に竹の塚グランドホテルがある。 |
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旧日光街道(都道103号) 竹の塚四丁目交差点で右折
地図と違い、交差点名はないが、手前右に竹の塚グランドホテルがあり、左奥には竹ノ塚駅が見える。 |
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竹の塚交差点で左折、日光街道(国道4号)へ |
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竹の塚交差点で左折、日光街道(国道4号)へ |
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日光街道(国道4号) 足立車検場入口交差点 |
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日光街道(国道4号) 保木間四丁目交差点 |
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日光街道(国道4号) 西保木間交差点で右上の日光街道(都道49号)へ
西保木間交差点で二股に分岐し、日光街道(国道4号)は左に進み、ここから右に日光街道(都道49号)が始まる。都道49号は足立越谷線で、旧国道4号、日光街道である。 |
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日光街道(国道4号) 西保木間交差点で右上の日光街道(都道49号)へ
日光街道(都道49号)に出るための歩道が近くにないため、西保木間交差点で日光街道(国道4号)を渡る。 |
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日光街道(都道49号) 西保木間交差点
高架は日光街道(国道4号)の毛長川に架かる橋である。 |
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日光街道(都道49号) 毛長川に架かる水神橋 |
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日光街道(県道49号) 水神橋を渡って埼玉県草加市へ |
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日光街道(県道49号)を北上
日光街道(県道49号)沿いに草加煎餅の販売店が並ぶ。 |
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日光街道(県道49号) 浅間神社 |
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日光街道(県道49号) 浅間神社
奥の社務所に東日本大震災の支援物資収集所が設けられている。 |
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日光街道(県道49号) 浅間神社
富士浅間神社本殿
富士浅間神社は、木花咲耶姫命を祭る。神社創建年次は明らかではないが、「新編武蔵風土記稿」によると、「浅間社 村の産神とす。善福寺持」とある。別当の善福寺は、寺伝によると「寛永四年(一六二七)の開基にして、この浅間神社は、他の場所に祭られていたのを、明暦年間(一六五五〜一六五七)に、現在地に移建した」と伝えられている。
現本殿は、天保十三年(一八四二)に再建されたことが本殿内にある擬宝珠銘からわかる。
富士山は古くがら霊山として山岳信仰の対象となり、中世になると、富士行人と呼ばれる本山派修験の人たちが中心となり、一般民衆を引率して富士登山を行った。
江戸時代になると、富士講の開祖と崇められた、角行東覚が出るに及んで、各地域に講が組織され、先達を中心とした溝中が一団となって登山するようになっていった。
本殿の建物は、問口二・三二メートル、奥行三・六〇メートルの流造の一間社で、前面に軒唐破風、千鳥破風を配し、随所に彫刻を配し、贅を尽くしたものである。これは当時この地方に繁栄した、和晒・形付・紺屋のゆかた染関連の業者と地元が協力し、この地の富士講が面目にかけて造営したものと思われる。
この本殿が造営された天保(一八三〇〜一八四三)ごろは、構造材に波紋などを彫刻するだけでなく、その間に花鳥風月や日本の神話、中国の故事等を題材とした写実的な彫刻物で装飾することが盛んに行われた。内部は簡素であるが、外観を中心にしたいわゆる見せる社殿としての傾向が強くなった。この建物もその例外ではない。
現在では、このような豊富な彫刻を配した神社建造物は少なく、特にこの地域での社寺建築の装飾を研究する上からも重要なものである。 |
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日光街道(県道49号) 浅間神社 |
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日光街道(県道49号) 浅間神社 本殿 |
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日光街道(県道49号) 浅間神社 社務所
東日本大震災の支援物資収集所になっている。 |
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日光街道(県道49号) 谷塚駅入口交差点で左折、県道401号(谷塚停車場線)へ
浅間神社の北端にある交差点である。 |
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県道401号(谷塚停車場線) 谷塚の由来
(谷塚) 1889(明治22)年4月1日、上谷塚、中谷塚、下谷塚、瀬崎、新里、柳島、東遊馬、市右衛門新田、彦右衛門新田の9村が合併して谷塚村が誕生。大村であった谷塚の地名をとって谷塚村としたものです。194。(昭和15)年11月23日に町制を施行し、谷塚町となり、1955(昭和30)年 1月1日に草加町と合併しました。
(地名のおこり)
谷塚という地名のおこりについてはいくつかの説(低湿地の塚、八つの墳墓=八塚、休塚=祭壇など)がありますが、低湿地の塚(古墳など)に由来する説が通説となっています。
谷塚という地名は、この地域に初めて住んだ人たちの間でおそらく、「ヤチ」または「ヤツ」の処という意味でヤチカまたはヤツカ(谷処)と呼ばれていたものと考えられます。 そこに、いつの頃からか塚があったため、ヤツ(谷)にある塚ということで、谷塚という字を あてたものと思われます。 |
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東武 伊勢崎線 谷塚駅 |