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王子 飛鳥山公園
飛鳥山公園は西ヶ原一里塚から200m弱北に進んだ所から始まり、南北に長く、東はJR京浜東北線の線路、西は本郷通り、北は王子駅に向かう明治通りが境界になっている公園である。写真は公園の南西の入口で、渋沢栄一や、王子製紙関連の建物が並ぶ。北に向かうと有名な桜並木となる。 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢家 飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。
渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入りロとなる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣エの「青淵文庫」、このニ棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。 |
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王子 飛鳥山公園 3つの博物館
南の入口から、渋沢資料館、北区飛鳥山博物館、紙の博物館がある。 |
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王子 飛鳥山公園 晩香廬・青淵文庫 |
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王子 飛鳥山公園 晩香廬 |
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王子 飛鳥山公園 青淵文庫
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けをした陶板が用いられている。「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。 |
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王子 飛鳥山公園 青淵文庫 |
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王子 飛鳥山公園 渋沢資料館 |
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王子 飛鳥山公園 北区飛鳥山博物館 |
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王子 飛鳥山公園 紙の博物館 |
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王子 飛鳥山公園 |
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王子 飛鳥山公園 |
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王子 飛鳥山公園 飛鳥山碑
八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保五年(一七二〇)から翌年にかけて、ー二七〇本の山桜 の苗木を植栽した。元文二年(一七三七)にはこの地を王子 権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(風卿・錦江)によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の五経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(ー三二ー〜三)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。
異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよ く知られている。 |
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王子 飛鳥山公園 飛鳥山碑 |