靖国神社〜神田明神〜湯島天神

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有名神社 神田明神
有名神社 湯島天神


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本郷通り 湯島聖堂前交差点で右折 神田明神 
本郷通り 湯島聖堂前交差点で右折 神田明神 隨神門 
神田明神 神殿、鳳凰殿 神田明神 神殿、鳳凰殿 

左の鳳凰殿は、神札授与所と参集所をあわせ持つ。
神田明神 石獅子 神田明神 石獅子 
神田明神 石獅子 神田明神 石獅子 

 本石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。
「武江年表」には「文久二年(一八六二)十一月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。
 神社境内の獅子山に据えられていたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災により獅子山自体は崩壊した。その際、子獅子は、紛失したものの、親獅子二頭は、保存され、再建された獅子山に据えられた。
神田明神 銭形平次碑 神田明神 銭形平次碑 
神田明神 銭形平次碑 神田明神 銭形平次碑 

銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
平次の住居は、明神下の台所町ということになっている。
この碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁の明神下を見下ろす地に建立された。
石造り寛永通宝の銭形の中央には、平次の碑、その右側には八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。
神田明神 国学発祥之地 神田明神 国学発祥之地 

荷田春満が江戸に下ってより初めて国学の教場を開いたのが、当神社社家芝崎邸内であったことから江戸における国学の発祥の地とされている。
神田明神 明神男坂 神田明神 明神男坂 

この坂を明神男坂と言います。明神石坂とも呼ばれます。「神田文化史」には「天保の初年当時神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を明神に献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺りからやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。
神田明神 明神男坂 神田明神 明神男坂 
神田明神 明神男坂 神田明神 明神男坂 

かなりの急坂である。
神田明神 裏参道 神田明神 裏参道 
神田明神 裏参道 神田明神 裏参道 
神田明神 裏参道 神田明神 裏参道 
蔵前橋通り 蔵前橋通り 

神田明神の裏参道を下りると蔵前橋通りで、右折して妻恋坂を下る。
蔵前橋通り 妻恋坂交差点で左折、不忍通りへ 蔵前橋通り 妻恋坂交差点で左折、不忍通りへ 
不忍通り 三組坂下交差点で左折 不忍通り 三組坂下交差点で左折 
湯島 三組坂を上る 湯島 三組坂を上る 

元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。
 この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。
湯島 三組坂 三組坂上交差点で右折 湯島 三組坂 三組坂上交差点で右折 
湯島天神 表鳥居(銅鳥居) 湯島天神 表鳥居(銅鳥居) 

銅製大鳥居(都指定文化財)
寛文7年(1667)9月創建され、同11年(1671)修理した銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。

湯島天神は見事な菊花展で有名であり、別ページにまとめた。

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